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歴史
江戸城御書院番に就任 寛永15年(1638)家光に重用されていた異母弟・柳生友矩(とものり)が病により辞職し、再出仕が許された十兵衛は江戸城御書院番に就任しました。書院番とは江戸幕府の徳川将軍直属の軍団で、その職務は江戸城内の警備や江戸市中の巡回、将軍外出時の随行、幕府巡見使としての諸国派遣など多岐にわたります。十兵衛の場合は、家光の前での兵法披露などもしていたようです。寛永19年(1642)には、故郷に引きこもっていたあいだに収集した資料などをもとに、新陰流の知識をまとめて『月之抄』を執筆。これはのちに彼の代表作となりました。 家督継承と最期 家光に再出仕した十兵衛でしたが、父の死により状況が変わります。十兵衛の家督の継承から最...
十兵衛は片目に何をつけた剣豪として知られていますか。
十兵衛は片目に眼帯をつけた隻眼の剣豪として知られています。
JCRRAG_012602
歴史
鎌倉幕府を開いた人である源頼朝の計画 鎌倉時代とは、1185年から1331年までの約150年間のことを指します。鎌倉幕府が成立したのは、1185年に守護・地頭が設置されてからのことで、源頼朝が征夷大将軍になった1192年ではありません。   この時代は大きく四つに分けることができて、一つ目が、1185年から1199年に頼朝が亡くなるまでの12世紀末ごろで、鎌倉幕府の成立期です。二つ目が、北条時政が初代執権となってから五代執権・時頼までの時期の13世紀前期のことを指し、執権政治の時代です。   三つ目が13世紀後期で、蒙古襲来から得宗専制体制に移り変わっていく時期です。四つ目が14世紀前期で、鎌倉幕府の滅亡と建武の新しい政治...
鎌倉時代とは、いつのことを指しますか。
鎌倉時代とは、1185年から1331年までの約150年間のことを指します。
JCRRAG_012603
歴史
鎌倉幕府を開いた人である源頼朝の計画 鎌倉時代とは、1185年から1331年までの約150年間のことを指します。鎌倉幕府が成立したのは、1185年に守護・地頭が設置されてからのことで、源頼朝が征夷大将軍になった1192年ではありません。   この時代は大きく四つに分けることができて、一つ目が、1185年から1199年に頼朝が亡くなるまでの12世紀末ごろで、鎌倉幕府の成立期です。二つ目が、北条時政が初代執権となってから五代執権・時頼までの時期の13世紀前期のことを指し、執権政治の時代です。   三つ目が13世紀後期で、蒙古襲来から得宗専制体制に移り変わっていく時期です。四つ目が14世紀前期で、鎌倉幕府の滅亡と建武の新しい政治...
鎌倉幕府が成立したのは、1185年になにが設置されてからのことですか。
鎌倉幕府が成立したのは、1185年に守護・地頭が設置されてからのことで、源頼朝が征夷大将軍になった1192年ではありません。
JCRRAG_012604
歴史
鎌倉幕府を開いた人である源頼朝の計画 鎌倉時代とは、1185年から1331年までの約150年間のことを指します。鎌倉幕府が成立したのは、1185年に守護・地頭が設置されてからのことで、源頼朝が征夷大将軍になった1192年ではありません。   この時代は大きく四つに分けることができて、一つ目が、1185年から1199年に頼朝が亡くなるまでの12世紀末ごろで、鎌倉幕府の成立期です。二つ目が、北条時政が初代執権となってから五代執権・時頼までの時期の13世紀前期のことを指し、執権政治の時代です。   三つ目が13世紀後期で、蒙古襲来から得宗専制体制に移り変わっていく時期です。四つ目が14世紀前期で、鎌倉幕府の滅亡と建武の新しい政治...
1185年から1199年に頼朝が亡くなるまでの12世紀末ごろは、鎌倉幕府のどのような時期ですか。
1185年から1199年に頼朝が亡くなるまでの12世紀末ごろで、鎌倉幕府の成立期です。
JCRRAG_012605
歴史
奥州藤原氏が1189年に滅び、源頼朝は翌年1190年に右近衛大将になります。しかし、頼朝が欲しいのは右近衛大将の地位ではなく、征夷大将軍の位でした。右近衛大将は何事においても朝廷を無視して動くわけにはいきません。朝廷の近くを護衛する役職ですから、当たり前といえば当たり前です。 対して征夷大将軍は、平安時代に坂上田村麻呂に与えられた称号のことですが、ある程度自分の裁量で動くことができます。なぜかというと、現在のように電話もメールもない時代なので、関東でもし緊急の用事ができた場合、いちいち朝廷におうかがいを立てている暇がないのです。朝廷が直接命令できないということは、征夷大将軍にある程度任せるしかないということです。   つま...
源頼朝はいつ右近衛大将になりますか。
奥州藤原氏が1189年に滅び、源頼朝は翌年1190年に右近衛大将になります。
JCRRAG_012606
歴史
奥州藤原氏が1189年に滅び、源頼朝は翌年1190年に右近衛大将になります。しかし、頼朝が欲しいのは右近衛大将の地位ではなく、征夷大将軍の位でした。右近衛大将は何事においても朝廷を無視して動くわけにはいきません。朝廷の近くを護衛する役職ですから、当たり前といえば当たり前です。 対して征夷大将軍は、平安時代に坂上田村麻呂に与えられた称号のことですが、ある程度自分の裁量で動くことができます。なぜかというと、現在のように電話もメールもない時代なので、関東でもし緊急の用事ができた場合、いちいち朝廷におうかがいを立てている暇がないのです。朝廷が直接命令できないということは、征夷大将軍にある程度任せるしかないということです。   つま...
頼朝が欲しいのは何の位でしたか。
頼朝が欲しいのは右近衛大将の地位ではなく、征夷大将軍の位でした。
JCRRAG_012607
歴史
鎌倉幕府の初代の将軍である源頼朝が1199年にこの世を去りますが、二代目にその子の頼家が就任します。しかし、頼家がまだ若かったというのもありますが、頼朝自身のカリスマ性がすごく、頼朝でないと言うことを聞かないという人もいました。   そこで、十三人の有力な御家人たちで意見をまとめ、それによって政策を実行していこうという、十三人の合議制というものがおこなわれるようになりました。今までは頼朝が命令を出して、その下の御家人たちが命令に従うという形でしたが、頼家の下の十三人での合議制となると、当然彼らの中で主導権の奪い合いになります。   その中で頭一つ分抜けて力をつけていったのが、頼朝の妻・北条政子の父親である北条時政です。北条政...
鎌倉幕府の初代の将軍である源頼朝はいつこの世を去りますか。
鎌倉幕府の初代の将軍である源頼朝が1199年にこの世を去りますが、二代目にその子の頼家が就任します。
JCRRAG_012608
歴史
鎌倉幕府の初代の将軍である源頼朝が1199年にこの世を去りますが、二代目にその子の頼家が就任します。しかし、頼家がまだ若かったというのもありますが、頼朝自身のカリスマ性がすごく、頼朝でないと言うことを聞かないという人もいました。   そこで、十三人の有力な御家人たちで意見をまとめ、それによって政策を実行していこうという、十三人の合議制というものがおこなわれるようになりました。今までは頼朝が命令を出して、その下の御家人たちが命令に従うという形でしたが、頼家の下の十三人での合議制となると、当然彼らの中で主導権の奪い合いになります。   その中で頭一つ分抜けて力をつけていったのが、頼朝の妻・北条政子の父親である北条時政です。北条政...
十三人の有力な御家人たちで意見をまとめ、それによって政策を実行していこうとする制度は何ですか。
十三人の有力な御家人たちで意見をまとめ、それによって政策を実行していこうという、十三人の合議制というものがおこなわれるようになりました。
JCRRAG_012609
歴史
鎌倉幕府の初代の将軍である源頼朝が1199年にこの世を去りますが、二代目にその子の頼家が就任します。しかし、頼家がまだ若かったというのもありますが、頼朝自身のカリスマ性がすごく、頼朝でないと言うことを聞かないという人もいました。   そこで、十三人の有力な御家人たちで意見をまとめ、それによって政策を実行していこうという、十三人の合議制というものがおこなわれるようになりました。今までは頼朝が命令を出して、その下の御家人たちが命令に従うという形でしたが、頼家の下の十三人での合議制となると、当然彼らの中で主導権の奪い合いになります。   その中で頭一つ分抜けて力をつけていったのが、頼朝の妻・北条政子の父親である北条時政です。北条政...
十三人の有力な御家人たちの中で頭一つ分抜けて力をつけていったのはだれですか。
頭一つ分抜けて力をつけていったのが、頼朝の妻・北条政子の父親である北条時政です。
JCRRAG_012610
歴史
鎌倉幕府の初代の将軍である源頼朝が1199年にこの世を去りますが、二代目にその子の頼家が就任します。しかし、頼家がまだ若かったというのもありますが、頼朝自身のカリスマ性がすごく、頼朝でないと言うことを聞かないという人もいました。   そこで、十三人の有力な御家人たちで意見をまとめ、それによって政策を実行していこうという、十三人の合議制というものがおこなわれるようになりました。今までは頼朝が命令を出して、その下の御家人たちが命令に従うという形でしたが、頼家の下の十三人での合議制となると、当然彼らの中で主導権の奪い合いになります。   その中で頭一つ分抜けて力をつけていったのが、頼朝の妻・北条政子の父親である北条時政です。北条政...
梶原景時が殺されたのはいつですか。
御家人同士の主導権の奪い合いによって、1200年に梶原景時が殺されてしまいます。
JCRRAG_012611
歴史
北条時政のあとに執権に就いたのは、その子の義時でした。比企能員の乱の10年後、1213年の和田合戦で、義時はその頃侍所のトップを担っていた和田義盛を倒します。その結果、義時は政所別当のほかに、侍所の別当にも就任することになります。   そのあと、義時は頼家の子・公暁を洗脳しはじめます。結果、公暁はこう考えるようになります。「私の兄(一幡)も父(頼家)も祖父(比企能員)も、死んだのはみんな実朝のせいだ」言うまでもなく、全ての暗殺を企てたのは北条氏ですが、そんなことは決して口には出さず、実朝が将軍になりたいがためにおまえの家族を殺した、と洗脳したのです。   そう聞かされていた公暁は実朝を憎み、将軍である実朝の暗殺を、1219年...
北条時政のあとに執権に就いたのは、だれですか。
北条時政のあとに執権に就いたのは、その子の義時でした。
JCRRAG_012612
歴史
北条時政のあとに執権に就いたのは、その子の義時でした。比企能員の乱の10年後、1213年の和田合戦で、義時はその頃侍所のトップを担っていた和田義盛を倒します。その結果、義時は政所別当のほかに、侍所の別当にも就任することになります。   そのあと、義時は頼家の子・公暁を洗脳しはじめます。結果、公暁はこう考えるようになります。「私の兄(一幡)も父(頼家)も祖父(比企能員)も、死んだのはみんな実朝のせいだ」言うまでもなく、全ての暗殺を企てたのは北条氏ですが、そんなことは決して口には出さず、実朝が将軍になりたいがためにおまえの家族を殺した、と洗脳したのです。   そう聞かされていた公暁は実朝を憎み、将軍である実朝の暗殺を、1219年...
いつ義時はその頃侍所のトップを担っていた和田義盛を倒しますか。
1213年の和田合戦で、義時はその頃侍所のトップを担っていた和田義盛を倒します。
JCRRAG_012613
歴史
北条時政のあとに執権に就いたのは、その子の義時でした。比企能員の乱の10年後、1213年の和田合戦で、義時はその頃侍所のトップを担っていた和田義盛を倒します。その結果、義時は政所別当のほかに、侍所の別当にも就任することになります。   そのあと、義時は頼家の子・公暁を洗脳しはじめます。結果、公暁はこう考えるようになります。「私の兄(一幡)も父(頼家)も祖父(比企能員)も、死んだのはみんな実朝のせいだ」言うまでもなく、全ての暗殺を企てたのは北条氏ですが、そんなことは決して口には出さず、実朝が将軍になりたいがためにおまえの家族を殺した、と洗脳したのです。   そう聞かされていた公暁は実朝を憎み、将軍である実朝の暗殺を、1219年...
義時はだれを洗脳しはじめましたか。
義時は頼家の子・公暁を洗脳しはじめます。
JCRRAG_012614
歴史
北条時政のあとに執権に就いたのは、その子の義時でした。比企能員の乱の10年後、1213年の和田合戦で、義時はその頃侍所のトップを担っていた和田義盛を倒します。その結果、義時は政所別当のほかに、侍所の別当にも就任することになります。   そのあと、義時は頼家の子・公暁を洗脳しはじめます。結果、公暁はこう考えるようになります。「私の兄(一幡)も父(頼家)も祖父(比企能員)も、死んだのはみんな実朝のせいだ」言うまでもなく、全ての暗殺を企てたのは北条氏ですが、そんなことは決して口には出さず、実朝が将軍になりたいがためにおまえの家族を殺した、と洗脳したのです。   そう聞かされていた公暁は実朝を憎み、将軍である実朝の暗殺を、1219年...
後鳥羽上皇はどこに島流しにされましたか。
後鳥羽上皇は隠岐に島流しにされてしまいます。
JCRRAG_012615
歴史
北条義時の次に執権に就任したのは泰時です。1224年のことで、彼は三代目でした。その翌年の1225年に、初代別当である大江広元と北条政子がこの世を去りました。幕府での人間関係の基本は、まず将軍・源頼朝という主人がいて、その配下である御家人が周りをかためている、という構図でした。   頼朝と御家人が主従関係を保てているのは、主人が御恩を与えるかわりに、家来たちは奉公するというように、お互いに助け合っていたからうまくいったのです。将軍が家来に与える御恩とは、本領安堵と新恩給与があり、前者はもともと御家人が持っていた土地の支配権を将軍が守りますよ、というもので、後者は新しく土地を分け与えますよ、という意味です。   それに対して、...
執権が北条泰時のときに、補佐役の連署に任命されたのはだれですか。
執権が北条泰時のときに、補佐役の連署に任命されたのが、泰時の弟である時房でした。
JCRRAG_012616
歴史
北条義時の次に執権に就任したのは泰時です。1224年のことで、彼は三代目でした。その翌年の1225年に、初代別当である大江広元と北条政子がこの世を去りました。幕府での人間関係の基本は、まず将軍・源頼朝という主人がいて、その配下である御家人が周りをかためている、という構図でした。   頼朝と御家人が主従関係を保てているのは、主人が御恩を与えるかわりに、家来たちは奉公するというように、お互いに助け合っていたからうまくいったのです。将軍が家来に与える御恩とは、本領安堵と新恩給与があり、前者はもともと御家人が持っていた土地の支配権を将軍が守りますよ、というもので、後者は新しく土地を分け与えますよ、という意味です。   それに対して、...
将軍が家来に与える御恩とはどのような意味ですか。
将軍が家来に与える御恩とは、本領安堵と新恩給与があり、前者はもともと御家人が持っていた土地の支配権を将軍が守りますよ、というもので、後者は新しく土地を分け与えますよ、という意味です。
JCRRAG_012617
歴史
北条義時の次に執権に就任したのは泰時です。1224年のことで、彼は三代目でした。その翌年の1225年に、初代別当である大江広元と北条政子がこの世を去りました。幕府での人間関係の基本は、まず将軍・源頼朝という主人がいて、その配下である御家人が周りをかためている、という構図でした。   頼朝と御家人が主従関係を保てているのは、主人が御恩を与えるかわりに、家来たちは奉公するというように、お互いに助け合っていたからうまくいったのです。将軍が家来に与える御恩とは、本領安堵と新恩給与があり、前者はもともと御家人が持っていた土地の支配権を将軍が守りますよ、というもので、後者は新しく土地を分け与えますよ、という意味です。   それに対して、...
初代別当である大江広元と北条政子がこの世を去ったのはいつですか。
1225年に、初代別当である大江広元と北条政子がこの世を去りました。
JCRRAG_012618
歴史
第八代執権である北条時宗の時代に、ある重大な事件が勃発します。それが、蒙古襲来(元寇)だったのですが、その対応に時宗は悩まされ続けることになります。12世紀末から13世紀はじめに日本では鎌倉幕府ができていますが、それと同じ頃に、中国大陸では、モンゴル帝国がチンギス・ハーンによって成立しました。その孫であるフビライ・ハーンは、元を1217年に建国することとなります。   中国の古くからある中華思想(自己を文化の中心の「中華」とする考え方)を大切にしてきたフビライは、その発想にもとづいて、まわりの人たちに服属を求めるようになります。例をあげると、朝鮮半島の高麗、吐蕃(チベット)、越南(ベトナム)などに服属を要求しました。そして、高麗...
フビライ・ハーンは、いつ元を建国しますか。
フビライ・ハーンは、元を1217年に建国することとなります。
JCRRAG_012619
歴史
第八代執権である北条時宗の時代に、ある重大な事件が勃発します。それが、蒙古襲来(元寇)だったのですが、その対応に時宗は悩まされ続けることになります。12世紀末から13世紀はじめに日本では鎌倉幕府ができていますが、それと同じ頃に、中国大陸では、モンゴル帝国がチンギス・ハーンによって成立しました。その孫であるフビライ・ハーンは、元を1217年に建国することとなります。   中国の古くからある中華思想(自己を文化の中心の「中華」とする考え方)を大切にしてきたフビライは、その発想にもとづいて、まわりの人たちに服属を求めるようになります。例をあげると、朝鮮半島の高麗、吐蕃(チベット)、越南(ベトナム)などに服属を要求しました。そして、高麗...
その頃の日本の合戦の基本的なスタイルはどのようなものでしたか。
一騎打ちというのが、その頃の日本の合戦の基本的なスタイルでした。
JCRRAG_012620
歴史
第八代執権である北条時宗の時代に、ある重大な事件が勃発します。それが、蒙古襲来(元寇)だったのですが、その対応に時宗は悩まされ続けることになります。12世紀末から13世紀はじめに日本では鎌倉幕府ができていますが、それと同じ頃に、中国大陸では、モンゴル帝国がチンギス・ハーンによって成立しました。その孫であるフビライ・ハーンは、元を1217年に建国することとなります。   中国の古くからある中華思想(自己を文化の中心の「中華」とする考え方)を大切にしてきたフビライは、その発想にもとづいて、まわりの人たちに服属を求めるようになります。例をあげると、朝鮮半島の高麗、吐蕃(チベット)、越南(ベトナム)などに服属を要求しました。そして、高麗...
モンゴルの基本的な戦法はどのようなものでしたか。
モンゴルは火薬を用いた武器も使用していて、弓も持ってはいましたが、基本的に集団戦法でした。
JCRRAG_012621
歴史
第八代執権である北条時宗の時代に、ある重大な事件が勃発します。それが、蒙古襲来(元寇)だったのですが、その対応に時宗は悩まされ続けることになります。12世紀末から13世紀はじめに日本では鎌倉幕府ができていますが、それと同じ頃に、中国大陸では、モンゴル帝国がチンギス・ハーンによって成立しました。その孫であるフビライ・ハーンは、元を1217年に建国することとなります。   中国の古くからある中華思想(自己を文化の中心の「中華」とする考え方)を大切にしてきたフビライは、その発想にもとづいて、まわりの人たちに服属を求めるようになります。例をあげると、朝鮮半島の高麗、吐蕃(チベット)、越南(ベトナム)などに服属を要求しました。そして、高麗...
博多湾の沿岸につくったものはなにですか。
石塁という石の塀を博多湾の沿岸につくりました。
JCRRAG_012622
歴史
蒙古は一度のみならず、そのあともまた襲来してきますが、今度はまた様子が違いました。中国の南宋が1279年に滅亡します。元をモンゴル民族が建国すると、宋は南へ追いやられ、そのうち滅びてしまい、元の領土の一部に組み込まれます。その2年後である1281年に弘安の役が勃発しますが、これが二度目の元寇です。   一度目の襲来のときは、朝鮮半島側の東路軍のみでした。しかし、二度目は大陸からの江南軍も押し寄せてきて、二手に分かれて博多湾を襲いました。さらに、敵の数は一回目を大きく上回っていて、十万人くらいだったといわれています。   しかし、また同じ結果を迎えてしまいます。いくら数を増やしたところで、モンゴル軍側に航海術がないことに変わり...
中国の南宋はいつ滅亡しますか。
中国の南宋が1279年に滅亡します。
JCRRAG_012623
歴史
蒙古は一度のみならず、そのあともまた襲来してきますが、今度はまた様子が違いました。中国の南宋が1279年に滅亡します。元をモンゴル民族が建国すると、宋は南へ追いやられ、そのうち滅びてしまい、元の領土の一部に組み込まれます。その2年後である1281年に弘安の役が勃発しますが、これが二度目の元寇です。   一度目の襲来のときは、朝鮮半島側の東路軍のみでした。しかし、二度目は大陸からの江南軍も押し寄せてきて、二手に分かれて博多湾を襲いました。さらに、敵の数は一回目を大きく上回っていて、十万人くらいだったといわれています。   しかし、また同じ結果を迎えてしまいます。いくら数を増やしたところで、モンゴル軍側に航海術がないことに変わり...
二度目の襲来の時の敵の人数はどれくらいだったといわれていますか。
敵の数は一回目を大きく上回っていて、十万人くらいだったといわれています。
JCRRAG_012624
歴史
蒙古は一度のみならず、そのあともまた襲来してきますが、今度はまた様子が違いました。中国の南宋が1279年に滅亡します。元をモンゴル民族が建国すると、宋は南へ追いやられ、そのうち滅びてしまい、元の領土の一部に組み込まれます。その2年後である1281年に弘安の役が勃発しますが、これが二度目の元寇です。   一度目の襲来のときは、朝鮮半島側の東路軍のみでした。しかし、二度目は大陸からの江南軍も押し寄せてきて、二手に分かれて博多湾を襲いました。さらに、敵の数は一回目を大きく上回っていて、十万人くらいだったといわれています。   しかし、また同じ結果を迎えてしまいます。いくら数を増やしたところで、モンゴル軍側に航海術がないことに変わり...
御家人と幕府の関係は、なにで成り立っていますか。
御家人と幕府の関係は、御恩と奉公で成り立っています。
JCRRAG_012625
歴史
北条氏はますます力をつけ、御家人はどんどん貧しくなっていきました。今まで西日本は鎌倉幕府の影響力はあまり関係ない地域でした。御家人はほぼいませんでしたし、朝廷に服属する武士が主でした。このような人たちのことを非御家人とよびました。   しかし、西国の武士たちも、元寇がきっかけとなって「われらも外敵に対処するために、ある程度は幕府にお願いしておかなければ」という考えを持つようになります。その結果、西のほうにまで北条氏の勢力が伸びていくこととなり、防衛と統治を強めるために、北条一族が任命される役職の鎮西探題が九州に設置されました。   こうして、全国の守護の半分を北条氏が担うこととなりました。ちなみに、国内の御家人・武士たちのま...
今まで西日本は鎌倉幕府の影響力はありましたか。
今まで西日本は鎌倉幕府の影響力はあまり関係ない地域でした。
JCRRAG_012626
歴史
北条氏はますます力をつけ、御家人はどんどん貧しくなっていきました。今まで西日本は鎌倉幕府の影響力はあまり関係ない地域でした。御家人はほぼいませんでしたし、朝廷に服属する武士が主でした。このような人たちのことを非御家人とよびました。   しかし、西国の武士たちも、元寇がきっかけとなって「われらも外敵に対処するために、ある程度は幕府にお願いしておかなければ」という考えを持つようになります。その結果、西のほうにまで北条氏の勢力が伸びていくこととなり、防衛と統治を強めるために、北条一族が任命される役職の鎮西探題が九州に設置されました。   こうして、全国の守護の半分を北条氏が担うこととなりました。ちなみに、国内の御家人・武士たちのま...
西国の武士たちは、元寇がきっかけでどのような考えを持つようになりますか。
西国の武士たちも、元寇がきっかけとなって「われらも外敵に対処するために、ある程度は幕府にお願いしておかなければ」という考えを持つようになります。
JCRRAG_012627
歴史
北条氏はますます力をつけ、御家人はどんどん貧しくなっていきました。今まで西日本は鎌倉幕府の影響力はあまり関係ない地域でした。御家人はほぼいませんでしたし、朝廷に服属する武士が主でした。このような人たちのことを非御家人とよびました。   しかし、西国の武士たちも、元寇がきっかけとなって「われらも外敵に対処するために、ある程度は幕府にお願いしておかなければ」という考えを持つようになります。その結果、西のほうにまで北条氏の勢力が伸びていくこととなり、防衛と統治を強めるために、北条一族が任命される役職の鎮西探題が九州に設置されました。   こうして、全国の守護の半分を北条氏が担うこととなりました。ちなみに、国内の御家人・武士たちのま...
全国の守護の半分をだれが担うことになりましたか。
全国の守護の半分を北条氏が担うこととなりました。
JCRRAG_012628
歴史
北条氏はますます力をつけ、御家人はどんどん貧しくなっていきました。今まで西日本は鎌倉幕府の影響力はあまり関係ない地域でした。御家人はほぼいませんでしたし、朝廷に服属する武士が主でした。このような人たちのことを非御家人とよびました。   しかし、西国の武士たちも、元寇がきっかけとなって「われらも外敵に対処するために、ある程度は幕府にお願いしておかなければ」という考えを持つようになります。その結果、西のほうにまで北条氏の勢力が伸びていくこととなり、防衛と統治を強めるために、北条一族が任命される役職の鎮西探題が九州に設置されました。   こうして、全国の守護の半分を北条氏が担うこととなりました。ちなみに、国内の御家人・武士たちのま...
国内の御家人・武士たちのまとめ役のことをなにといいますか。
国内の御家人・武士たちのまとめ役のことを守護といいます。
JCRRAG_012629
歴史
そもそも鎌倉幕府の中では、執権がずば抜けて強い力を持っているということではありませんでした。というか、有力な御家人と執権の身分差は、それほど変わりませんでした。この中で別格なのは将軍のみ(殿上人といって、内裏の清涼殿に昇殿を許された人のこと)で、執権、連署、評定衆、有力御家人があまり格差のない立場で政務をとってきました。   しかし、元寇がきっかけとなって、北条家、その中でも得宗家の立場がいきなり強くなり、逆に有力御家人の立場ががくっと弱くなってしまったので、そこに大きな差が生まれました。今までの最高意思決定機関は評定衆だったのですが、得宗家の中でおこなわれる寄合がそれに代わるものとなってきたのです。   得宗を補佐するのが...
有力な御家人と執権の身分差は、ありましたか。
有力な御家人と執権の身分差は、それほど変わりませんでした。
JCRRAG_012630
歴史
そもそも鎌倉幕府の中では、執権がずば抜けて強い力を持っているということではありませんでした。というか、有力な御家人と執権の身分差は、それほど変わりませんでした。この中で別格なのは将軍のみ(殿上人といって、内裏の清涼殿に昇殿を許された人のこと)で、執権、連署、評定衆、有力御家人があまり格差のない立場で政務をとってきました。   しかし、元寇がきっかけとなって、北条家、その中でも得宗家の立場がいきなり強くなり、逆に有力御家人の立場ががくっと弱くなってしまったので、そこに大きな差が生まれました。今までの最高意思決定機関は評定衆だったのですが、得宗家の中でおこなわれる寄合がそれに代わるものとなってきたのです。   得宗を補佐するのが...
永仁の徳政令をいつ出しますか。
永仁の徳政令を1297年に出します。
JCRRAG_012631
歴史
そもそも鎌倉幕府の中では、執権がずば抜けて強い力を持っているということではありませんでした。というか、有力な御家人と執権の身分差は、それほど変わりませんでした。この中で別格なのは将軍のみ(殿上人といって、内裏の清涼殿に昇殿を許された人のこと)で、執権、連署、評定衆、有力御家人があまり格差のない立場で政務をとってきました。   しかし、元寇がきっかけとなって、北条家、その中でも得宗家の立場がいきなり強くなり、逆に有力御家人の立場ががくっと弱くなってしまったので、そこに大きな差が生まれました。今までの最高意思決定機関は評定衆だったのですが、得宗家の中でおこなわれる寄合がそれに代わるものとなってきたのです。   得宗を補佐するのが...
永仁の徳政とはどのようなものですか。
20年以内であれば、御家人が他の御家人に売り払った土地でも無条件で取り戻せるというものです。
JCRRAG_012632
歴史
そもそも鎌倉幕府の中では、執権がずば抜けて強い力を持っているということではありませんでした。というか、有力な御家人と執権の身分差は、それほど変わりませんでした。この中で別格なのは将軍のみ(殿上人といって、内裏の清涼殿に昇殿を許された人のこと)で、執権、連署、評定衆、有力御家人があまり格差のない立場で政務をとってきました。   しかし、元寇がきっかけとなって、北条家、その中でも得宗家の立場がいきなり強くなり、逆に有力御家人の立場ががくっと弱くなってしまったので、そこに大きな差が生まれました。今までの最高意思決定機関は評定衆だったのですが、得宗家の中でおこなわれる寄合がそれに代わるものとなってきたのです。   得宗を補佐するのが...
だれが安達泰盛とその一族を滅ぼしますか。
平頼綱が安達泰盛とその一族を滅ぼしてしまいます。
JCRRAG_012633
歴史
皇族・貴族から武士へ、政治の主体が変わっていった鎌倉時代では、文化面でも飛躍的な発展を見せました。とくに仏教はますます庶民層に広まり、新しい教団がどんどん生まれました。天台宗の比叡山延暦寺で学んだ人の中から、たくさん鎌倉新仏教を創設する人が出てきます。   そこで根幹である「法華経」を読んでいると、当たり前ですが、どれだけお金を費やすかで極楽に行けるかどうかが決まるかなどとは一切書いてありません。それが、今までの宗教のありかたを見直すきっかけとなったのです。   専修念仏といって、「極楽に行くには念仏を唱えさえすればいい」と説いたのは、浄土宗を起こした法然ですが、これは、「仏に対する気持ちが大事です」という意味で、いい家柄の...
仏教がますます庶民層に広まることでなにがどんどん生まれましたか。
仏教はますます庶民層に広まり、新しい教団がどんどん生まれました。
JCRRAG_012634
歴史
皇族・貴族から武士へ、政治の主体が変わっていった鎌倉時代では、文化面でも飛躍的な発展を見せました。とくに仏教はますます庶民層に広まり、新しい教団がどんどん生まれました。天台宗の比叡山延暦寺で学んだ人の中から、たくさん鎌倉新仏教を創設する人が出てきます。   そこで根幹である「法華経」を読んでいると、当たり前ですが、どれだけお金を費やすかで極楽に行けるかどうかが決まるかなどとは一切書いてありません。それが、今までの宗教のありかたを見直すきっかけとなったのです。   専修念仏といって、「極楽に行くには念仏を唱えさえすればいい」と説いたのは、浄土宗を起こした法然ですが、これは、「仏に対する気持ちが大事です」という意味で、いい家柄の...
一遍は、なにを開祖した人ですか。
一遍は、時宗を開祖した人ですが、基本的な理念は一緒でしたが、楽器を鳴らし、踊りながら念仏を唱える踊念仏によって、いろいろな所で布教活動をおこないました。
JCRRAG_012635
歴史
皇族・貴族から武士へ、政治の主体が変わっていった鎌倉時代では、文化面でも飛躍的な発展を見せました。とくに仏教はますます庶民層に広まり、新しい教団がどんどん生まれました。天台宗の比叡山延暦寺で学んだ人の中から、たくさん鎌倉新仏教を創設する人が出てきます。   そこで根幹である「法華経」を読んでいると、当たり前ですが、どれだけお金を費やすかで極楽に行けるかどうかが決まるかなどとは一切書いてありません。それが、今までの宗教のありかたを見直すきっかけとなったのです。   専修念仏といって、「極楽に行くには念仏を唱えさえすればいい」と説いたのは、浄土宗を起こした法然ですが、これは、「仏に対する気持ちが大事です」という意味で、いい家柄の...
日蓮はなにを唱えることで救われると説きましたか。
日蓮という人がいて、彼は題目(南無妙法蓮華経)を唱えることで救われると説きましたが、この人は「法華経」こそ釈迦の教えの真髄である、と熱く語ると同時に、他の宗教を批判するなど、過激なところがありました。
JCRRAG_012636
歴史
皇族・貴族から武士へ、政治の主体が変わっていった鎌倉時代では、文化面でも飛躍的な発展を見せました。とくに仏教はますます庶民層に広まり、新しい教団がどんどん生まれました。天台宗の比叡山延暦寺で学んだ人の中から、たくさん鎌倉新仏教を創設する人が出てきます。   そこで根幹である「法華経」を読んでいると、当たり前ですが、どれだけお金を費やすかで極楽に行けるかどうかが決まるかなどとは一切書いてありません。それが、今までの宗教のありかたを見直すきっかけとなったのです。   専修念仏といって、「極楽に行くには念仏を唱えさえすればいい」と説いたのは、浄土宗を起こした法然ですが、これは、「仏に対する気持ちが大事です」という意味で、いい家柄の...
「喫茶養生記」によってお茶の使い道を説いたのは、だれですか。
「喫茶養生記」によってお茶の使い道を説いたのは、栄西という人でしたが、これがのちに茶道と禅が結びついて、独特な発展のしかたをしました。
JCRRAG_012637
歴史
まだまだ得宗専制政治の体制が続く世の中でしたが、十四代執権となった北条高時は、政治にはあまり興味がない人で、もっぱら田楽(祭礼神事の芸能)などの遊びごとにふけっていました。なので、その補佐としてついていた内管領の長崎高資が軸となって、政治を動かしていくこととなります。   さらに、御家人の不満は解消されないままでしたので、色々嫌味を言われたくなかったのでしょう。まったく御家人を入れず、内管領・御家人のみで政治を動かしていくようになってしまったので、さらに独裁が進んでしまいました。   一方、この時代の朝廷サイドの動きとしては、後嵯峨天皇が1272年にこの世を去った後、亀山天皇と後深草上皇のあいだで対立が生まれていました。大覚...
十四代執権となった北条高時は、どのようなことにふけっていましたか。
十四代執権となった北条高時は、政治にはあまり興味がない人で、もっぱら田楽(祭礼神事の芸能)などの遊びごとにふけっていました。
JCRRAG_012638
歴史
まだまだ得宗専制政治の体制が続く世の中でしたが、十四代執権となった北条高時は、政治にはあまり興味がない人で、もっぱら田楽(祭礼神事の芸能)などの遊びごとにふけっていました。なので、その補佐としてついていた内管領の長崎高資が軸となって、政治を動かしていくこととなります。   さらに、御家人の不満は解消されないままでしたので、色々嫌味を言われたくなかったのでしょう。まったく御家人を入れず、内管領・御家人のみで政治を動かしていくようになってしまったので、さらに独裁が進んでしまいました。   一方、この時代の朝廷サイドの動きとしては、後嵯峨天皇が1272年にこの世を去った後、亀山天皇と後深草上皇のあいだで対立が生まれていました。大覚...
後嵯峨天皇はいつこの世を去りましたか。
後嵯峨天皇が1272年にこの世を去った後、亀山天皇と後深草上皇のあいだで対立が生まれていました。
JCRRAG_012639
歴史
まだまだ得宗専制政治の体制が続く世の中でしたが、十四代執権となった北条高時は、政治にはあまり興味がない人で、もっぱら田楽(祭礼神事の芸能)などの遊びごとにふけっていました。なので、その補佐としてついていた内管領の長崎高資が軸となって、政治を動かしていくこととなります。   さらに、御家人の不満は解消されないままでしたので、色々嫌味を言われたくなかったのでしょう。まったく御家人を入れず、内管領・御家人のみで政治を動かしていくようになってしまったので、さらに独裁が進んでしまいました。   一方、この時代の朝廷サイドの動きとしては、後嵯峨天皇が1272年にこの世を去った後、亀山天皇と後深草上皇のあいだで対立が生まれていました。大覚...
院政の廃止、天皇の親政を最初におこなったのはだれですか。
院政の廃止、天皇の親政を後醍醐天皇が最初におこないました。
JCRRAG_012640
歴史
まだまだ得宗専制政治の体制が続く世の中でしたが、十四代執権となった北条高時は、政治にはあまり興味がない人で、もっぱら田楽(祭礼神事の芸能)などの遊びごとにふけっていました。なので、その補佐としてついていた内管領の長崎高資が軸となって、政治を動かしていくこととなります。   さらに、御家人の不満は解消されないままでしたので、色々嫌味を言われたくなかったのでしょう。まったく御家人を入れず、内管領・御家人のみで政治を動かしていくようになってしまったので、さらに独裁が進んでしまいました。   一方、この時代の朝廷サイドの動きとしては、後嵯峨天皇が1272年にこの世を去った後、亀山天皇と後深草上皇のあいだで対立が生まれていました。大覚...
京に上った足利軍はどこを攻め入りますか。
京に上った足利軍は六波羅探題に攻め入ります。
JCRRAG_012641
歴史
後醍醐天皇は幕府の滅亡後に、隠岐から脱出して京に戻ります。そして、ここから建武の新政がはじまりますが、これは1333年からはじまった後醍醐天皇による親政のことです。一般的に、天皇の命令は宣旨といって、太政官が審議をしてから発令されます。ほかに、蔵人所の審議だけで手軽に出せる綸旨というものもあります。   土地を媒介としたものがこの時代の武家社会だったので、誰がこの土地の持ち主だ、というような、ほとんどの法律が土地の支配に関係するものでした。なので、後醍醐天皇の綸旨にも、土地のことについて考えられたものが多かったのですが、この綸旨に、その頃の武家社会の常識では考えられないような部分が多く存在していたことが問題でした。   たと...
後醍醐天皇はいつ隠岐から脱出して京に戻りますか。
後醍醐天皇は幕府の滅亡後に、隠岐から脱出して京に戻ります。
JCRRAG_012642
歴史
後醍醐天皇は幕府の滅亡後に、隠岐から脱出して京に戻ります。そして、ここから建武の新政がはじまりますが、これは1333年からはじまった後醍醐天皇による親政のことです。一般的に、天皇の命令は宣旨といって、太政官が審議をしてから発令されます。ほかに、蔵人所の審議だけで手軽に出せる綸旨というものもあります。   土地を媒介としたものがこの時代の武家社会だったので、誰がこの土地の持ち主だ、というような、ほとんどの法律が土地の支配に関係するものでした。なので、後醍醐天皇の綸旨にも、土地のことについて考えられたものが多かったのですが、この綸旨に、その頃の武家社会の常識では考えられないような部分が多く存在していたことが問題でした。   たと...
建武の新政はどのような親政のことですか。
1333年からはじまった後醍醐天皇による親政のことです。
JCRRAG_012643
歴史
後醍醐天皇は幕府の滅亡後に、隠岐から脱出して京に戻ります。そして、ここから建武の新政がはじまりますが、これは1333年からはじまった後醍醐天皇による親政のことです。一般的に、天皇の命令は宣旨といって、太政官が審議をしてから発令されます。ほかに、蔵人所の審議だけで手軽に出せる綸旨というものもあります。   土地を媒介としたものがこの時代の武家社会だったので、誰がこの土地の持ち主だ、というような、ほとんどの法律が土地の支配に関係するものでした。なので、後醍醐天皇の綸旨にも、土地のことについて考えられたものが多かったのですが、この綸旨に、その頃の武家社会の常識では考えられないような部分が多く存在していたことが問題でした。   たと...
武家社会では、どれくらいの期間土地を支配すれば、その人の持ちものになるという考え方が定着していましたか。
武家社会では、土地を20年以上支配することができれば、その人の持ちものになるという考え方が定着していました(二十ヵ年年紀法)。
JCRRAG_012644
歴史
後醍醐天皇は幕府の滅亡後に、隠岐から脱出して京に戻ります。そして、ここから建武の新政がはじまりますが、これは1333年からはじまった後醍醐天皇による親政のことです。一般的に、天皇の命令は宣旨といって、太政官が審議をしてから発令されます。ほかに、蔵人所の審議だけで手軽に出せる綸旨というものもあります。   土地を媒介としたものがこの時代の武家社会だったので、誰がこの土地の持ち主だ、というような、ほとんどの法律が土地の支配に関係するものでした。なので、後醍醐天皇の綸旨にも、土地のことについて考えられたものが多かったのですが、この綸旨に、その頃の武家社会の常識では考えられないような部分が多く存在していたことが問題でした。   たと...
もともと建武の新政はなにを目指していましたか。
もともと建武の新政は平安時代の延喜・天暦の治を目指していましたが、その時代の武士はただのボディガードだったわけで、そのただのボディガードを政策の計画に加わらせようとなど、考えるはずもありません。
JCRRAG_012645
歴史
室町時代は大まかに三つに分けることができます。一つ目は、南北朝の対立から室町幕府が出来上がるまでの時期。これは、14世紀中期と後期で、1336年に建武式目が制定されるところから、三代将軍足利義満までの時期を指します。   二つ目は、室町幕府が揺れ動く時期。15世紀前期のことで、四代将軍足利義持から七代将軍足利義勝までの時期です。三つ目は、15世紀後期から16世紀前期までを指し、応仁の乱から戦国時代へと移る時期です。   建武政権への不満がどんどんたまっていき、その気持ちは、鎌倉幕府の再興をのぞむようになります。新政開始の翌年、1335年には、北条高時の子である時行が反乱を起こし、一時的に鎌倉を占領するようになります。これは、...
新政開始の翌年、1335年に反乱を起こしたのはだれですか。
新政開始の翌年、1335年には、北条高時の子である時行が反乱を起こし、一時的に鎌倉を占領するようになります。
JCRRAG_012646
歴史
室町時代は大まかに三つに分けることができます。一つ目は、南北朝の対立から室町幕府が出来上がるまでの時期。これは、14世紀中期と後期で、1336年に建武式目が制定されるところから、三代将軍足利義満までの時期を指します。   二つ目は、室町幕府が揺れ動く時期。15世紀前期のことで、四代将軍足利義持から七代将軍足利義勝までの時期です。三つ目は、15世紀後期から16世紀前期までを指し、応仁の乱から戦国時代へと移る時期です。   建武政権への不満がどんどんたまっていき、その気持ちは、鎌倉幕府の再興をのぞむようになります。新政開始の翌年、1335年には、北条高時の子である時行が反乱を起こし、一時的に鎌倉を占領するようになります。これは、...
持明院統の光明天皇が征夷大将軍に足利尊氏を任命するのはいつですか。
1338年、征夷大将軍に足利尊氏を任命します。
JCRRAG_012647
歴史
室町時代は大まかに三つに分けることができます。一つ目は、南北朝の対立から室町幕府が出来上がるまでの時期。これは、14世紀中期と後期で、1336年に建武式目が制定されるところから、三代将軍足利義満までの時期を指します。   二つ目は、室町幕府が揺れ動く時期。15世紀前期のことで、四代将軍足利義持から七代将軍足利義勝までの時期です。三つ目は、15世紀後期から16世紀前期までを指し、応仁の乱から戦国時代へと移る時期です。   建武政権への不満がどんどんたまっていき、その気持ちは、鎌倉幕府の再興をのぞむようになります。新政開始の翌年、1335年には、北条高時の子である時行が反乱を起こし、一時的に鎌倉を占領するようになります。これは、...
尊氏はいつ楠木正成を倒しますか。
湊川の戦いで楠木正成を1336年に倒すと、その勢いが衰えないうちに京を制圧してしまいました。
JCRRAG_012648
歴史
室町時代は大まかに三つに分けることができます。一つ目は、南北朝の対立から室町幕府が出来上がるまでの時期。これは、14世紀中期と後期で、1336年に建武式目が制定されるところから、三代将軍足利義満までの時期を指します。   二つ目は、室町幕府が揺れ動く時期。15世紀前期のことで、四代将軍足利義持から七代将軍足利義勝までの時期です。三つ目は、15世紀後期から16世紀前期までを指し、応仁の乱から戦国時代へと移る時期です。   建武政権への不満がどんどんたまっていき、その気持ちは、鎌倉幕府の再興をのぞむようになります。新政開始の翌年、1335年には、北条高時の子である時行が反乱を起こし、一時的に鎌倉を占領するようになります。これは、...
後醍醐天皇は、どこに逃亡しますか。
後醍醐天皇は、その楠木がいなくなってしまってどうにもできなくなり、吉野(いまの奈良県)に逃亡してしまいます。
JCRRAG_012649
歴史
足利尊氏が室町幕府の一番はじめの将軍です。最初は、尊氏は弟の足利直義と一緒に政務をとっていました。つまり、二頭政治というものです。しかし、二人が仲良くやっていたのははじめだけで、そのうち対立が生まれてきます。それが表面化したのが1350年で、観応の擾乱とよばれています。   最終的なきっかけとなったのは、尊氏の側近である執事の高師直が直義に殺されたことです。よく歌舞伎や講談物に登場する高師直ですが、彼は尊氏の補佐をつとめていました。直義はだんだん尊氏に重用されつつある高師直のことを良く思わず、殺してしまうのです。   高師直を殺したことに腹を立てた尊氏は、弟の直義を毒殺してしまい、一応両成敗のような結果にはなったのですが、争...
室町幕府の一番はじめの将軍はだれですか。
足利尊氏が室町幕府の一番はじめの将軍です。
JCRRAG_012650
歴史
足利尊氏が室町幕府の一番はじめの将軍です。最初は、尊氏は弟の足利直義と一緒に政務をとっていました。つまり、二頭政治というものです。しかし、二人が仲良くやっていたのははじめだけで、そのうち対立が生まれてきます。それが表面化したのが1350年で、観応の擾乱とよばれています。   最終的なきっかけとなったのは、尊氏の側近である執事の高師直が直義に殺されたことです。よく歌舞伎や講談物に登場する高師直ですが、彼は尊氏の補佐をつとめていました。直義はだんだん尊氏に重用されつつある高師直のことを良く思わず、殺してしまうのです。   高師直を殺したことに腹を立てた尊氏は、弟の直義を毒殺してしまい、一応両成敗のような結果にはなったのですが、争...
高師直を殺したことに腹を立てた尊氏は、だれを毒殺しますか。
高師直を殺したことに腹を立てた尊氏は、弟の直義を毒殺してしまい、一応両成敗のような結果にはなったのですが、争いはそれだけでは終わらず、それから3年間も、幕府の中では争いが絶えず起きていました。
JCRRAG_012651
歴史
足利尊氏が室町幕府の一番はじめの将軍です。最初は、尊氏は弟の足利直義と一緒に政務をとっていました。つまり、二頭政治というものです。しかし、二人が仲良くやっていたのははじめだけで、そのうち対立が生まれてきます。それが表面化したのが1350年で、観応の擾乱とよばれています。   最終的なきっかけとなったのは、尊氏の側近である執事の高師直が直義に殺されたことです。よく歌舞伎や講談物に登場する高師直ですが、彼は尊氏の補佐をつとめていました。直義はだんだん尊氏に重用されつつある高師直のことを良く思わず、殺してしまうのです。   高師直を殺したことに腹を立てた尊氏は、弟の直義を毒殺してしまい、一応両成敗のような結果にはなったのですが、争...
観応の擾乱が起こっている時に、発令されたものは何というものですか。
観応の擾乱が起こっている時に、半済令というものが発令されます。
JCRRAG_012652
歴史
足利尊氏が室町幕府の一番はじめの将軍です。最初は、尊氏は弟の足利直義と一緒に政務をとっていました。つまり、二頭政治というものです。しかし、二人が仲良くやっていたのははじめだけで、そのうち対立が生まれてきます。それが表面化したのが1350年で、観応の擾乱とよばれています。   最終的なきっかけとなったのは、尊氏の側近である執事の高師直が直義に殺されたことです。よく歌舞伎や講談物に登場する高師直ですが、彼は尊氏の補佐をつとめていました。直義はだんだん尊氏に重用されつつある高師直のことを良く思わず、殺してしまうのです。   高師直を殺したことに腹を立てた尊氏は、弟の直義を毒殺してしまい、一応両成敗のような結果にはなったのですが、争...
自然と武士たちはだれの前で頑張るようになりますか。
自然と武士たちは守護の前で頑張るようになります。
JCRRAG_012653
歴史
南北朝合体、明との国交を樹立、守護の勢力削減の三つの事柄を、三代将軍である足利義満はやってのけます。まず最初に、1329年の南北朝合体についてです。   当初は、両者は特に仲が悪かったわけではなく、南朝は吉野に、北朝は京に存在していました。南朝のほうに天皇を象徴するものである三種の神器があったのですが、後亀山天皇と後小松天皇の二人が、それぞれ吉野と京で正当性を力説していて、中途半端な状態にありました。それを、義満がなんとかしようとしたわけです。   どうやったかというと、南朝の後亀山天皇から北朝の後小松天皇に位を譲るというかたちで、二人の面目が保たれるように気をつけつつ、南北朝合体を成功させました。そのあとも後小松天皇は天皇...
南朝と北朝はどこに存在していましたか。
南朝は吉野に、北朝は京に存在していました。
JCRRAG_012654
歴史
南北朝合体、明との国交を樹立、守護の勢力削減の三つの事柄を、三代将軍である足利義満はやってのけます。まず最初に、1329年の南北朝合体についてです。   当初は、両者は特に仲が悪かったわけではなく、南朝は吉野に、北朝は京に存在していました。南朝のほうに天皇を象徴するものである三種の神器があったのですが、後亀山天皇と後小松天皇の二人が、それぞれ吉野と京で正当性を力説していて、中途半端な状態にありました。それを、義満がなんとかしようとしたわけです。   どうやったかというと、南朝の後亀山天皇から北朝の後小松天皇に位を譲るというかたちで、二人の面目が保たれるように気をつけつつ、南北朝合体を成功させました。そのあとも後小松天皇は天皇...
義満は、いつ公家の最高位である太政大臣に就任しましたか。
1394年に将軍職からおりた義満は、公家の最高位である太政大臣に就任しました。
JCRRAG_012655
歴史
南北朝合体、明との国交を樹立、守護の勢力削減の三つの事柄を、三代将軍である足利義満はやってのけます。まず最初に、1329年の南北朝合体についてです。   当初は、両者は特に仲が悪かったわけではなく、南朝は吉野に、北朝は京に存在していました。南朝のほうに天皇を象徴するものである三種の神器があったのですが、後亀山天皇と後小松天皇の二人が、それぞれ吉野と京で正当性を力説していて、中途半端な状態にありました。それを、義満がなんとかしようとしたわけです。   どうやったかというと、南朝の後亀山天皇から北朝の後小松天皇に位を譲るというかたちで、二人の面目が保たれるように気をつけつつ、南北朝合体を成功させました。そのあとも後小松天皇は天皇...
公家社会の中では征夷大将軍というのは高い地位のものでしたか。
公家社会の中では征夷大将軍というのはそこまで高い地位でもなかったので、太政大臣という高い地位に就任することによって、将軍家の権力を絶対のものにしていくことにもなりました。
JCRRAG_012656
歴史
中国で明が建国されたのは1368年のことです。久しぶりに漢民族による国家ができたので、明は古くからある中華思想的なものを復活させたいと思うようになります。そこで、近くの国々に対して協力を求めます。日本はそれをOKし、国交を1401年に樹立、その翌年の1402年に「日本国王源道義」という名前と、「大統暦」という暦をもらいます。   足利義満のことを「源道義」というのですが、これは、「あなたがただ一人の日本の国王である」ということを中国の王様に認めさせたということです。同時に、明の暦を与えられますが、つまり「明と同じ時間を共有し、両国は一心同体でやっていきましょう」という意味で、日本が中華思想の枠組みの中に組み込まれたということです...
中国で明が建国されたのはいつですか。
中国で明が建国されたのは1368年のことです。
JCRRAG_012657
歴史
中国で明が建国されたのは1368年のことです。久しぶりに漢民族による国家ができたので、明は古くからある中華思想的なものを復活させたいと思うようになります。そこで、近くの国々に対して協力を求めます。日本はそれをOKし、国交を1401年に樹立、その翌年の1402年に「日本国王源道義」という名前と、「大統暦」という暦をもらいます。   足利義満のことを「源道義」というのですが、これは、「あなたがただ一人の日本の国王である」ということを中国の王様に認めさせたということです。同時に、明の暦を与えられますが、つまり「明と同じ時間を共有し、両国は一心同体でやっていきましょう」という意味で、日本が中華思想の枠組みの中に組み込まれたということです...
日明貿易では、どのような規則がありましたか。
日明貿易では、お互いの勘合が合わなければ貿易はしてはいけないという規則があり、日本と明のどちらにも勘合という鑑札を持ってくるように義務づけられていたため、勘合貿易ともいわれていました。
JCRRAG_012658
歴史
中国で明が建国されたのは1368年のことです。久しぶりに漢民族による国家ができたので、明は古くからある中華思想的なものを復活させたいと思うようになります。そこで、近くの国々に対して協力を求めます。日本はそれをOKし、国交を1401年に樹立、その翌年の1402年に「日本国王源道義」という名前と、「大統暦」という暦をもらいます。   足利義満のことを「源道義」というのですが、これは、「あなたがただ一人の日本の国王である」ということを中国の王様に認めさせたということです。同時に、明の暦を与えられますが、つまり「明と同じ時間を共有し、両国は一心同体でやっていきましょう」という意味で、日本が中華思想の枠組みの中に組み込まれたということです...
貿易をする際なぜお互いの勘合が合わなければ貿易はしてはいけないという規則がうまれたのですか。
貿易をするには、海賊と本物の貿易船をきちんと見分ける必要があったため、そういった規則がうまれたのです。
JCRRAG_012659
歴史
中国で明が建国されたのは1368年のことです。久しぶりに漢民族による国家ができたので、明は古くからある中華思想的なものを復活させたいと思うようになります。そこで、近くの国々に対して協力を求めます。日本はそれをOKし、国交を1401年に樹立、その翌年の1402年に「日本国王源道義」という名前と、「大統暦」という暦をもらいます。   足利義満のことを「源道義」というのですが、これは、「あなたがただ一人の日本の国王である」ということを中国の王様に認めさせたということです。同時に、明の暦を与えられますが、つまり「明と同じ時間を共有し、両国は一心同体でやっていきましょう」という意味で、日本が中華思想の枠組みの中に組み込まれたということです...
明を建国した朱元璋は、漢民族の王朝の血筋を引いているわけではなかったので、何をお願いしにきましたか。
明を建国した朱元璋は、漢民族の王朝の血筋を引いているわけではなかったので、ソフトに「中華思想の枠に入ってください」とお願いしにきただけだったので、足利義満にとっても都合のよいものでした。
JCRRAG_012660
歴史
中国で明が建国されたのは1368年のことです。久しぶりに漢民族による国家ができたので、明は古くからある中華思想的なものを復活させたいと思うようになります。そこで、近くの国々に対して協力を求めます。日本はそれをOKし、国交を1401年に樹立、その翌年の1402年に「日本国王源道義」という名前と、「大統暦」という暦をもらいます。   足利義満のことを「源道義」というのですが、これは、「あなたがただ一人の日本の国王である」ということを中国の王様に認めさせたということです。同時に、明の暦を与えられますが、つまり「明と同じ時間を共有し、両国は一心同体でやっていきましょう」という意味で、日本が中華思想の枠組みの中に組み込まれたということです...
明と日本の国交はいつ樹立しましたか。
日本はそれをOKし、国交を1401年に樹立、その翌年の1402年に「日本国王源道義」という名前と、「大統暦」という暦をもらいます。
JCRRAG_012661
歴史
1394年に将軍職を息子の足利義持に譲った足利義満ですが、実際に権力を持っていたのは義満のほうでした。しかし、その義満も1408年に死去し、義持だけの時代がきましたが、その頃から少しずつ室町幕府の体制に揺らぎがみられるようになります。   まず最初に、義持は1411年に明との国交を断絶します。理由は朝貢というかたちに疑問を抱いていたからでした。ずっと後の1432年に、六代将軍である義教が国交を復活させましたが、その頃は将軍から有力な守護大名に貿易の実権が移っていました。将軍の権力がだんだん弱くなっていたからです。   とくに日明貿易を経て力をつけていったのは、山口を拠点に活動していた大内氏や、管領だった細川氏です。このあと、...
足利義満はいつ将軍職を息子の足利義持に譲りましたか。
1394年に将軍職を息子の足利義持に譲った足利義満ですが、実際に権力を持っていたのは義満のほうでした。
JCRRAG_012662
歴史
1394年に将軍職を息子の足利義持に譲った足利義満ですが、実際に権力を持っていたのは義満のほうでした。しかし、その義満も1408年に死去し、義持だけの時代がきましたが、その頃から少しずつ室町幕府の体制に揺らぎがみられるようになります。   まず最初に、義持は1411年に明との国交を断絶します。理由は朝貢というかたちに疑問を抱いていたからでした。ずっと後の1432年に、六代将軍である義教が国交を復活させましたが、その頃は将軍から有力な守護大名に貿易の実権が移っていました。将軍の権力がだんだん弱くなっていたからです。   とくに日明貿易を経て力をつけていったのは、山口を拠点に活動していた大内氏や、管領だった細川氏です。このあと、...
義持はいつ明との国交を断絶しますか。
義持は1411年に明との国交を断絶します。
JCRRAG_012663
歴史
1394年に将軍職を息子の足利義持に譲った足利義満ですが、実際に権力を持っていたのは義満のほうでした。しかし、その義満も1408年に死去し、義持だけの時代がきましたが、その頃から少しずつ室町幕府の体制に揺らぎがみられるようになります。   まず最初に、義持は1411年に明との国交を断絶します。理由は朝貢というかたちに疑問を抱いていたからでした。ずっと後の1432年に、六代将軍である義教が国交を復活させましたが、その頃は将軍から有力な守護大名に貿易の実権が移っていました。将軍の権力がだんだん弱くなっていたからです。   とくに日明貿易を経て力をつけていったのは、山口を拠点に活動していた大内氏や、管領だった細川氏です。このあと、...
1432年に、国交を復活させたのはだれですか。
1432年に、六代将軍である義教が国交を復活させましたが、その頃は将軍から有力な守護大名に貿易の実権が移っていました。
JCRRAG_012664
歴史
1428年に、四代将軍である義持が亡くなりますが、六代将軍に就いたのが足利義教でした。彼は三代・義満の子ですが、出家して延暦寺天台座主という地位に就いていました。が、ある事情で、還俗して将軍にならなければいけなくなりました。   その事情とは、五代の義量は若くして父親より先に亡くなってしまい、しばらく将軍がいない時期がありました。この時代は将軍が生きている間に位を次に譲っていたので、ちょっとややこしいのです。   将軍は直系が継ぐのが普通になっていたため、空白の時間がありました。結局、四代の義持は誰にも位を譲ることなく死んでしまいましたので、六代将軍を決めるのにくじ引きを適用しました。それで当たったのが義教だったので、「くじ...
いつ四代将軍である義持が亡くなりますか。
1428年に、四代将軍である義持が亡くなりますが、六代将軍に就いたのが足利義教でした。
JCRRAG_012665
歴史
1428年に、四代将軍である義持が亡くなりますが、六代将軍に就いたのが足利義教でした。彼は三代・義満の子ですが、出家して延暦寺天台座主という地位に就いていました。が、ある事情で、還俗して将軍にならなければいけなくなりました。   その事情とは、五代の義量は若くして父親より先に亡くなってしまい、しばらく将軍がいない時期がありました。この時代は将軍が生きている間に位を次に譲っていたので、ちょっとややこしいのです。   将軍は直系が継ぐのが普通になっていたため、空白の時間がありました。結局、四代の義持は誰にも位を譲ることなく死んでしまいましたので、六代将軍を決めるのにくじ引きを適用しました。それで当たったのが義教だったので、「くじ...
将軍はだれが継ぐのが普通でしたか。
将軍は直系が継ぐのが普通になっていたため、空白の時間がありました。
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歴史
1428年に、四代将軍である義持が亡くなりますが、六代将軍に就いたのが足利義教でした。彼は三代・義満の子ですが、出家して延暦寺天台座主という地位に就いていました。が、ある事情で、還俗して将軍にならなければいけなくなりました。   その事情とは、五代の義量は若くして父親より先に亡くなってしまい、しばらく将軍がいない時期がありました。この時代は将軍が生きている間に位を次に譲っていたので、ちょっとややこしいのです。   将軍は直系が継ぐのが普通になっていたため、空白の時間がありました。結局、四代の義持は誰にも位を譲ることなく死んでしまいましたので、六代将軍を決めるのにくじ引きを適用しました。それで当たったのが義教だったので、「くじ...
義教は将軍として技量や力はありましたか。
義教は将軍としてはそこまで技量も力もなかったので、権力はあるのに中身が伴ってないところがありました。
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歴史
そのような恐怖政治を続けていては、当然反発がおこってきます。1438年から39年にかけて、それが顕著にあらわれだしました。これを永享の乱といいます。これは、鎌倉公方と関東管領の対立がふたたび起こってしまったということになります。   関東管領は上杉憲実ですが、鎌倉公方のほうは同じく足利持氏でした。持氏は将軍である義教の命令を聞かない人間で、義教にとっては扱いづらく、こちらでも対立が起こっていましたので、自然と義教は上杉憲実側につくことになりました。なので、永享の乱のときは、上杉憲実側に幕府が味方して、足利持氏を討伐してしまいました。   永享の乱が起きたことで、上杉憲実が関東での権力を持ったことについて反発が起こり、1440...
1438年から39年にかけて、起きた乱はなにといいますか。
永享の乱といいます。
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歴史
そのような恐怖政治を続けていては、当然反発がおこってきます。1438年から39年にかけて、それが顕著にあらわれだしました。これを永享の乱といいます。これは、鎌倉公方と関東管領の対立がふたたび起こってしまったということになります。   関東管領は上杉憲実ですが、鎌倉公方のほうは同じく足利持氏でした。持氏は将軍である義教の命令を聞かない人間で、義教にとっては扱いづらく、こちらでも対立が起こっていましたので、自然と義教は上杉憲実側につくことになりました。なので、永享の乱のときは、上杉憲実側に幕府が味方して、足利持氏を討伐してしまいました。   永享の乱が起きたことで、上杉憲実が関東での権力を持ったことについて反発が起こり、1440...
持氏は将軍である義教の命令を聞く人間ですか。
持氏は将軍である義教の命令を聞かない人間で、義教にとっては扱いづらく、こちらでも対立が起こっていましたので、自然と義教は上杉憲実側につくことになりました。
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歴史
そのような恐怖政治を続けていては、当然反発がおこってきます。1438年から39年にかけて、それが顕著にあらわれだしました。これを永享の乱といいます。これは、鎌倉公方と関東管領の対立がふたたび起こってしまったということになります。   関東管領は上杉憲実ですが、鎌倉公方のほうは同じく足利持氏でした。持氏は将軍である義教の命令を聞かない人間で、義教にとっては扱いづらく、こちらでも対立が起こっていましたので、自然と義教は上杉憲実側につくことになりました。なので、永享の乱のときは、上杉憲実側に幕府が味方して、足利持氏を討伐してしまいました。   永享の乱が起きたことで、上杉憲実が関東での権力を持ったことについて反発が起こり、1440...
1441年に起こった変をなにといいますか。
1441年に起こった嘉吉の変といいます。
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歴史
そのような恐怖政治を続けていては、当然反発がおこってきます。1438年から39年にかけて、それが顕著にあらわれだしました。これを永享の乱といいます。これは、鎌倉公方と関東管領の対立がふたたび起こってしまったということになります。   関東管領は上杉憲実ですが、鎌倉公方のほうは同じく足利持氏でした。持氏は将軍である義教の命令を聞かない人間で、義教にとっては扱いづらく、こちらでも対立が起こっていましたので、自然と義教は上杉憲実側につくことになりました。なので、永享の乱のときは、上杉憲実側に幕府が味方して、足利持氏を討伐してしまいました。   永享の乱が起きたことで、上杉憲実が関東での権力を持ったことについて反発が起こり、1440...
赤松満祐はだれによって倒されますか。
追討軍によって赤松満祐も倒されてしまうのですが、幕府の威光はますます衰退していきました。
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歴史
八代将軍・足利義政の時代に、応仁の乱が起こります。これはいわゆる将軍の後継争いでした。義政の子の義尚を将軍にしたいと考えていた母親・日野富子を軸にした勢力と、義政の弟の義視を将軍として立てようとした勢力、また、管領家などの跡目争いがそれと一緒になって、1467年から77年まで11年間も戦争状態が続きました。 一応、義尚が次の将軍になるのですが、しばらく不安定な状況が続きます。また、大規模な一揆が義尚の時代に起きました。山城国一揆が1485年に勃発して、山城の国人(地元に住み続けていた武士、地侍)が南山城の畠山氏を追い払い、そのあと自治支配が8年間続きました。 加賀の一向一揆は、1488年に勃発しましたが、これは一向宗(浄土真宗)...
応仁の乱が起きたのはいつの時代ですか。
八代将軍・足利義政の時代に、応仁の乱が起こります。
JCRRAG_012672
歴史
八代将軍・足利義政の時代に、応仁の乱が起こります。これはいわゆる将軍の後継争いでした。義政の子の義尚を将軍にしたいと考えていた母親・日野富子を軸にした勢力と、義政の弟の義視を将軍として立てようとした勢力、また、管領家などの跡目争いがそれと一緒になって、1467年から77年まで11年間も戦争状態が続きました。 一応、義尚が次の将軍になるのですが、しばらく不安定な状況が続きます。また、大規模な一揆が義尚の時代に起きました。山城国一揆が1485年に勃発して、山城の国人(地元に住み続けていた武士、地侍)が南山城の畠山氏を追い払い、そのあと自治支配が8年間続きました。 加賀の一向一揆は、1488年に勃発しましたが、これは一向宗(浄土真宗)...
山城国一揆は、いつ勃発しましたか。
山城国一揆が1485年に勃発して、山城の国人(地元に住み続けていた武士、地侍)が南山城の畠山氏を追い払い、そのあと自治支配が8年間続きました。
JCRRAG_012673
歴史
八代将軍・足利義政の時代に、応仁の乱が起こります。これはいわゆる将軍の後継争いでした。義政の子の義尚を将軍にしたいと考えていた母親・日野富子を軸にした勢力と、義政の弟の義視を将軍として立てようとした勢力、また、管領家などの跡目争いがそれと一緒になって、1467年から77年まで11年間も戦争状態が続きました。 一応、義尚が次の将軍になるのですが、しばらく不安定な状況が続きます。また、大規模な一揆が義尚の時代に起きました。山城国一揆が1485年に勃発して、山城の国人(地元に住み続けていた武士、地侍)が南山城の畠山氏を追い払い、そのあと自治支配が8年間続きました。 加賀の一向一揆は、1488年に勃発しましたが、これは一向宗(浄土真宗)...
加賀の一向一揆は、いつ勃発しましたか。
加賀の一向一揆は、1488年に勃発しましたが、これは一向宗(浄土真宗)の門徒衆が起こしたものでした。
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歴史
八代将軍・足利義政の時代に、応仁の乱が起こります。これはいわゆる将軍の後継争いでした。義政の子の義尚を将軍にしたいと考えていた母親・日野富子を軸にした勢力と、義政の弟の義視を将軍として立てようとした勢力、また、管領家などの跡目争いがそれと一緒になって、1467年から77年まで11年間も戦争状態が続きました。 一応、義尚が次の将軍になるのですが、しばらく不安定な状況が続きます。また、大規模な一揆が義尚の時代に起きました。山城国一揆が1485年に勃発して、山城の国人(地元に住み続けていた武士、地侍)が南山城の畠山氏を追い払い、そのあと自治支配が8年間続きました。 加賀の一向一揆は、1488年に勃発しましたが、これは一向宗(浄土真宗)...
伊達政宗は、どの地方で有名な戦国大名ですか。
伊達政宗は、東北地方で有名な戦国大名です。
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歴史
中国地方では、周防(山口県)を支配していた大内氏が守護から戦国大名になり、戦国時代半ばくらいまでは、日明貿易のおかげで権力を保っていました。しかし、16世紀になると、同じく貿易で力をつけていた細川氏と敵対するようになりました。  寧波の乱というものが1523年に起きるのですが、大内氏がそれで勝利し、日明貿易を独占するようになります。  しかし、1551年にこの大内氏も陶晴賢という家老に討伐されてしまいます。これがいわゆる下克上といわれるもので、身分の低い者が上の者を倒して実力でのし上がっていくことを指します。例えば、関東の北条早雲もそうでしたが、こうして名を上げていくものが戦国大名の中にはたくさんいました。 そして、その陶晴賢...
大内氏はいつ陶晴賢という家老に討伐されてしまいますか。
1551年にこの大内氏も陶晴賢という家老に討伐されてしまいます。
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歴史
中国地方では、周防(山口県)を支配していた大内氏が守護から戦国大名になり、戦国時代半ばくらいまでは、日明貿易のおかげで権力を保っていました。しかし、16世紀になると、同じく貿易で力をつけていた細川氏と敵対するようになりました。  寧波の乱というものが1523年に起きるのですが、大内氏がそれで勝利し、日明貿易を独占するようになります。  しかし、1551年にこの大内氏も陶晴賢という家老に討伐されてしまいます。これがいわゆる下克上といわれるもので、身分の低い者が上の者を倒して実力でのし上がっていくことを指します。例えば、関東の北条早雲もそうでしたが、こうして名を上げていくものが戦国大名の中にはたくさんいました。 そして、その陶晴賢...
陶晴賢は、だれに倒されますか。
陶晴賢も、すぐに安芸(広島県)の毛利氏に倒されてしまいます。
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歴史
中国地方では、周防(山口県)を支配していた大内氏が守護から戦国大名になり、戦国時代半ばくらいまでは、日明貿易のおかげで権力を保っていました。しかし、16世紀になると、同じく貿易で力をつけていた細川氏と敵対するようになりました。  寧波の乱というものが1523年に起きるのですが、大内氏がそれで勝利し、日明貿易を独占するようになります。  しかし、1551年にこの大内氏も陶晴賢という家老に討伐されてしまいます。これがいわゆる下克上といわれるもので、身分の低い者が上の者を倒して実力でのし上がっていくことを指します。例えば、関東の北条早雲もそうでしたが、こうして名を上げていくものが戦国大名の中にはたくさんいました。 そして、その陶晴賢...
尼子氏は、どこの地域を軸に活動していましたか。
尼子氏は、出雲(島根県)を軸に活動していたのですが、もともとは京極氏の守護代でした。
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歴史
日本中が戦国として混乱してしまった一番大きな原因は、前に説明した半済令によって、守護大名の権力が強くなっていたからでしょう。将軍と御家人が御恩と奉公の関係で成り立っていた鎌倉時代のように、秩序があればこんなことにはならなかったのですが、それがなくなってしまったために、一国を守護大名が支配するようなかたちになってしまったのです。   しかし、守護とはいっても、将軍から任命されているからこそその職が成り立っています。なので、将軍というもの自体は、その後も守護を任命する役として、長く生き残っていくわけです。戦乱のど真ん中にいる日本ですが、もちろん彼らの目的は資源の奪い合いで、その対象は農地と鉱山でした。   その頃は、鉱山開発がし...
一国をだれが支配するようなかたちになってしまいましたか。
一国を守護大名が支配するようなかたちになってしまったのです。
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歴史
日本中が戦国として混乱してしまった一番大きな原因は、前に説明した半済令によって、守護大名の権力が強くなっていたからでしょう。将軍と御家人が御恩と奉公の関係で成り立っていた鎌倉時代のように、秩序があればこんなことにはならなかったのですが、それがなくなってしまったために、一国を守護大名が支配するようなかたちになってしまったのです。   しかし、守護とはいっても、将軍から任命されているからこそその職が成り立っています。なので、将軍というもの自体は、その後も守護を任命する役として、長く生き残っていくわけです。戦乱のど真ん中にいる日本ですが、もちろん彼らの目的は資源の奪い合いで、その対象は農地と鉱山でした。   その頃は、鉱山開発がし...
江戸時代のはじめには、外国にどれくらいの割合の日本の銀が流出したといわれていますか。
江戸時代のはじめには、外国に日本の銀の四分の一が流出したといわれていますが、この頃とても多くの金・銀が生産されていたので、武力を用いて、鉱山や農地などの資源の奪い合いが起こっていたわけです。
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歴史
日本中が戦国として混乱してしまった一番大きな原因は、前に説明した半済令によって、守護大名の権力が強くなっていたからでしょう。将軍と御家人が御恩と奉公の関係で成り立っていた鎌倉時代のように、秩序があればこんなことにはならなかったのですが、それがなくなってしまったために、一国を守護大名が支配するようなかたちになってしまったのです。   しかし、守護とはいっても、将軍から任命されているからこそその職が成り立っています。なので、将軍というもの自体は、その後も守護を任命する役として、長く生き残っていくわけです。戦乱のど真ん中にいる日本ですが、もちろん彼らの目的は資源の奪い合いで、その対象は農地と鉱山でした。   その頃は、鉱山開発がし...
甲州の武田氏が力を持つことができたのは、だれのおかげですか。
甲州の武田氏が力を持つことができたのも、甲斐金山のおかげですし、上杉氏と戦うのも、越後の金の奪い合いでした。
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歴史
日本中が戦国として混乱してしまった一番大きな原因は、前に説明した半済令によって、守護大名の権力が強くなっていたからでしょう。将軍と御家人が御恩と奉公の関係で成り立っていた鎌倉時代のように、秩序があればこんなことにはならなかったのですが、それがなくなってしまったために、一国を守護大名が支配するようなかたちになってしまったのです。   しかし、守護とはいっても、将軍から任命されているからこそその職が成り立っています。なので、将軍というもの自体は、その後も守護を任命する役として、長く生き残っていくわけです。戦乱のど真ん中にいる日本ですが、もちろん彼らの目的は資源の奪い合いで、その対象は農地と鉱山でした。   その頃は、鉱山開発がし...
日本で唯一、商業ベースに乗った石油は、どこの地域で産出されたものでしたか。
日本で唯一、商業ベースに乗った石油は、越後で産出されたものでした。
JCRRAG_012682
歴史
足利義満の時代が、室町時代上もっとも華やかでした。この頃の文化のことを北山文化といいますが、それを象徴する金閣(鹿苑寺金閣)は、京都の北山に義満が建設した山荘です。この北山文化の絵画のジャンルでは、水墨画が流行しました。もともと禅宗の僧侶が、禅の精神を描いたものが水墨画で、明兆、如拙、周文らが名画を後世に伝えています。 北山文化と東山文化の違いとは? 義満の保護をうけて、猿楽能を観阿弥・世阿弥が完成させます。「風姿花伝」(花伝書)は、能の真髄を書きあらわしたものとして現在でも読まれていますが、これは世阿弥がのこしたものです。 この頃、幕府は臨済宗を保護し、臨済宗の寺院の格をつけさせるために、五山・十刹の制を設けました。これは中...
室町時代上もっとも華やかだったのはだれの時代ですか。
足利義満の時代が、室町時代上もっとも華やかでした。
JCRRAG_012683
歴史
足利義満の時代が、室町時代上もっとも華やかでした。この頃の文化のことを北山文化といいますが、それを象徴する金閣(鹿苑寺金閣)は、京都の北山に義満が建設した山荘です。この北山文化の絵画のジャンルでは、水墨画が流行しました。もともと禅宗の僧侶が、禅の精神を描いたものが水墨画で、明兆、如拙、周文らが名画を後世に伝えています。 北山文化と東山文化の違いとは? 義満の保護をうけて、猿楽能を観阿弥・世阿弥が完成させます。「風姿花伝」(花伝書)は、能の真髄を書きあらわしたものとして現在でも読まれていますが、これは世阿弥がのこしたものです。 この頃、幕府は臨済宗を保護し、臨済宗の寺院の格をつけさせるために、五山・十刹の制を設けました。これは中...
室町時代上もっとも華やかだった頃の文化のことをなにといいますか。
この頃の文化のことを北山文化といいますが、それを象徴する金閣(鹿苑寺金閣)は、京都の北山に義満が建設した山荘です。
JCRRAG_012684
歴史
足利義満の時代が、室町時代上もっとも華やかでした。この頃の文化のことを北山文化といいますが、それを象徴する金閣(鹿苑寺金閣)は、京都の北山に義満が建設した山荘です。この北山文化の絵画のジャンルでは、水墨画が流行しました。もともと禅宗の僧侶が、禅の精神を描いたものが水墨画で、明兆、如拙、周文らが名画を後世に伝えています。 北山文化と東山文化の違いとは? 義満の保護をうけて、猿楽能を観阿弥・世阿弥が完成させます。「風姿花伝」(花伝書)は、能の真髄を書きあらわしたものとして現在でも読まれていますが、これは世阿弥がのこしたものです。 この頃、幕府は臨済宗を保護し、臨済宗の寺院の格をつけさせるために、五山・十刹の制を設けました。これは中...
猿楽能を完成させるのはだれですか。
猿楽能を観阿弥・世阿弥が完成させます。
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歴史
足利義満の時代が、室町時代上もっとも華やかでした。この頃の文化のことを北山文化といいますが、それを象徴する金閣(鹿苑寺金閣)は、京都の北山に義満が建設した山荘です。この北山文化の絵画のジャンルでは、水墨画が流行しました。もともと禅宗の僧侶が、禅の精神を描いたものが水墨画で、明兆、如拙、周文らが名画を後世に伝えています。 北山文化と東山文化の違いとは? 義満の保護をうけて、猿楽能を観阿弥・世阿弥が完成させます。「風姿花伝」(花伝書)は、能の真髄を書きあらわしたものとして現在でも読まれていますが、これは世阿弥がのこしたものです。 この頃、幕府は臨済宗を保護し、臨済宗の寺院の格をつけさせるために、五山・十刹の制を設けました。これは中...
応仁の乱で将軍職を譲った足利義政は、どこに山荘を建てて静かに暮らすようになりますか。
応仁の乱で将軍職を譲った足利義政は、権力争いや一揆が絶え間なく起こっている世の中に嫌気が差して、京の東山に山荘を建てて静かに暮らすようになります。
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歴史
この時代は数々の戦国大名が群雄割拠していましたが、その流れを急激に変えるものが、海外から持ちこまれます。それは、1543年に種子島に伝わった鉄砲です。画期的といってもいい武器でしたので、国内で生産もおこなわれるようになったほど、あっという間に日本中に普及しました。その中でも、最もこの武器を有効に使ったといわれるのが、皆様もご存知の織田信長です。彼はいわゆるこの時代のスーパースターですね。   様々な戦国大名がいましたが、彼らと織田信長の一番の違いは、最初から全国統一という明確な理想をもって行動していたというところです。当時のほとんどの戦国大名は、他の人の土地を奪って領土を広げていくとか、下克上をしてそこの支配権を自分のものにする...
1543年に種子島に伝わったのはなにですか。
1543年に種子島に伝わった鉄砲です。
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歴史
この時代は数々の戦国大名が群雄割拠していましたが、その流れを急激に変えるものが、海外から持ちこまれます。それは、1543年に種子島に伝わった鉄砲です。画期的といってもいい武器でしたので、国内で生産もおこなわれるようになったほど、あっという間に日本中に普及しました。その中でも、最もこの武器を有効に使ったといわれるのが、皆様もご存知の織田信長です。彼はいわゆるこの時代のスーパースターですね。   様々な戦国大名がいましたが、彼らと織田信長の一番の違いは、最初から全国統一という明確な理想をもって行動していたというところです。当時のほとんどの戦国大名は、他の人の土地を奪って領土を広げていくとか、下克上をしてそこの支配権を自分のものにする...
様々な戦国大名と織田信長との一番の違いはなにですか。
様々な戦国大名がいましたが、彼らと織田信長の一番の違いは、最初から全国統一という明確な理想をもって行動していたというところです。
JCRRAG_012688
歴史
この時代は数々の戦国大名が群雄割拠していましたが、その流れを急激に変えるものが、海外から持ちこまれます。それは、1543年に種子島に伝わった鉄砲です。画期的といってもいい武器でしたので、国内で生産もおこなわれるようになったほど、あっという間に日本中に普及しました。その中でも、最もこの武器を有効に使ったといわれるのが、皆様もご存知の織田信長です。彼はいわゆるこの時代のスーパースターですね。   様々な戦国大名がいましたが、彼らと織田信長の一番の違いは、最初から全国統一という明確な理想をもって行動していたというところです。当時のほとんどの戦国大名は、他の人の土地を奪って領土を広げていくとか、下克上をしてそこの支配権を自分のものにする...
信長は美濃の斉藤龍興と戦って倒したあと、稲葉山城をなんという名前に改めましたか。
美濃の斉藤龍興と戦って倒したあと、稲葉山城を岐阜城と改め、ここを拠点として活動することにしました。
JCRRAG_012689
歴史
織田信長が、いきなり「おれは京都で支配者になる」といっても、まわりは支持してくれないのは分かっていたので、信長は、有名ではあるけれどさほど実力がないような、細々と存在していた将軍を利用することにします。   朝廷や幕府などの大きな後ろ盾がないと、実質的な支配者にはなれません。バックボーンがしっかりしていなければ支持してもらえない、というところは、現在の日本でもそうですね。第十三代・足利義輝が将軍を務めていましたが、1565年、山城の支配者であった松永久秀に暗殺されてしまいます。そしてそのあと、十四代将軍として足利義栄を将軍として立てます。   細川春元を三好長慶が下克上し、さらにその三好長慶を倒したのが松永久秀です。彼は歌舞...
信長は、どのような将軍を利用することにしますか。
信長は、有名ではあるけれどさほど実力がないような、細々と存在していた将軍を利用することにします。
JCRRAG_012690
歴史
織田信長が、いきなり「おれは京都で支配者になる」といっても、まわりは支持してくれないのは分かっていたので、信長は、有名ではあるけれどさほど実力がないような、細々と存在していた将軍を利用することにします。   朝廷や幕府などの大きな後ろ盾がないと、実質的な支配者にはなれません。バックボーンがしっかりしていなければ支持してもらえない、というところは、現在の日本でもそうですね。第十三代・足利義輝が将軍を務めていましたが、1565年、山城の支配者であった松永久秀に暗殺されてしまいます。そしてそのあと、十四代将軍として足利義栄を将軍として立てます。   細川春元を三好長慶が下克上し、さらにその三好長慶を倒したのが松永久秀です。彼は歌舞...
なにの大きな後ろ盾がないと、実質的な支配者にはなれないですか。
朝廷や幕府などの大きな後ろ盾がないと、実質的な支配者にはなれません。
JCRRAG_012691
歴史
織田信長が、いきなり「おれは京都で支配者になる」といっても、まわりは支持してくれないのは分かっていたので、信長は、有名ではあるけれどさほど実力がないような、細々と存在していた将軍を利用することにします。   朝廷や幕府などの大きな後ろ盾がないと、実質的な支配者にはなれません。バックボーンがしっかりしていなければ支持してもらえない、というところは、現在の日本でもそうですね。第十三代・足利義輝が将軍を務めていましたが、1565年、山城の支配者であった松永久秀に暗殺されてしまいます。そしてそのあと、十四代将軍として足利義栄を将軍として立てます。   細川春元を三好長慶が下克上し、さらにその三好長慶を倒したのが松永久秀です。彼は歌舞...
細川春元をだれが下克上しますか。
細川春元を三好長慶が下克上し、さらにその三好長慶を倒したのが松永久秀です。
JCRRAG_012692
歴史
京都での対立の時期が第二期です。そういった経緯で、織田信長は足利義昭を将軍に立てますが、義昭は完全に信長の言いなりになる人ではありませんでした。  「あくまでも偉いのは将軍である自分であって、信長ではない。もちろん世話になった恩はあるけど、もともと自分が将軍になるべきところを助けてもらっただけにすぎない。だから、私は信長の言うことを全部聞く必要はない」というわけで、信長と足利義昭はだんだん対立し始めます。  もちろん義昭一人で戦うのは無理なので、近江の浅井長政、越前の朝倉義景、さらに比叡山延暦寺を味方にして、信長と対決しようとします。  浅井も朝倉も、単独では信長と戦うことは難しいと考えていたので、彼らにとってもこれは都合のい...
織田信長はだれを将軍に立てますか。
織田信長は足利義昭を将軍に立てますが、義昭は完全に信長の言いなりになる人ではありませんでした。 
JCRRAG_012693
歴史
京都での対立の時期が第二期です。そういった経緯で、織田信長は足利義昭を将軍に立てますが、義昭は完全に信長の言いなりになる人ではありませんでした。  「あくまでも偉いのは将軍である自分であって、信長ではない。もちろん世話になった恩はあるけど、もともと自分が将軍になるべきところを助けてもらっただけにすぎない。だから、私は信長の言うことを全部聞く必要はない」というわけで、信長と足利義昭はだんだん対立し始めます。  もちろん義昭一人で戦うのは無理なので、近江の浅井長政、越前の朝倉義景、さらに比叡山延暦寺を味方にして、信長と対決しようとします。  浅井も朝倉も、単独では信長と戦うことは難しいと考えていたので、彼らにとってもこれは都合のい...
いつ信長は堺を制圧することに成功し、支配しましたか。
1569年、信長は堺を制圧することに成功し、支配しました。
JCRRAG_012694
歴史
では、第三期をみていきましょう。全国を統一するために必要なことは二つあって、一つ目が、まず戦国大名のトップに立つことでした。そして二つ目が、宗教勢力を完全に支配してしまうことです。   まず、大名の頂点に立つにはどうしたらいいでしょうか。全国にごまんといる大名を一人ずつ倒していては、とても時間が足りません。ならばどうするか。単純に、一番力を持っている大名を倒せばいいのです。すると他の連中は9割はついてくるでしょう。もしついてこない者がいたら、それはそれで倒してしまえばいいのです。   宗教勢力にも、それと同じことが言えます。親分を倒せば、あとは逃げるかついてくるかするわけで、その頃一番力を持っていた集団さえなんとかしてしまえ...
全国を統一するために必要な二つのことはなにですか。
全国を統一するために必要なことは二つあって、一つ目が、まず戦国大名のトップに立つことでした。そして二つ目が、宗教勢力を完全に支配してしまうことです。
JCRRAG_012695
歴史
では、第三期をみていきましょう。全国を統一するために必要なことは二つあって、一つ目が、まず戦国大名のトップに立つことでした。そして二つ目が、宗教勢力を完全に支配してしまうことです。   まず、大名の頂点に立つにはどうしたらいいでしょうか。全国にごまんといる大名を一人ずつ倒していては、とても時間が足りません。ならばどうするか。単純に、一番力を持っている大名を倒せばいいのです。すると他の連中は9割はついてくるでしょう。もしついてこない者がいたら、それはそれで倒してしまえばいいのです。   宗教勢力にも、それと同じことが言えます。親分を倒せば、あとは逃げるかついてくるかするわけで、その頃一番力を持っていた集団さえなんとかしてしまえ...
大名の頂点に立つにはどうしたらいいでしょうか。
単純に、一番力を持っている大名を倒せばいいのです。
JCRRAG_012696
歴史
では、第三期をみていきましょう。全国を統一するために必要なことは二つあって、一つ目が、まず戦国大名のトップに立つことでした。そして二つ目が、宗教勢力を完全に支配してしまうことです。   まず、大名の頂点に立つにはどうしたらいいでしょうか。全国にごまんといる大名を一人ずつ倒していては、とても時間が足りません。ならばどうするか。単純に、一番力を持っている大名を倒せばいいのです。すると他の連中は9割はついてくるでしょう。もしついてこない者がいたら、それはそれで倒してしまえばいいのです。   宗教勢力にも、それと同じことが言えます。親分を倒せば、あとは逃げるかついてくるかするわけで、その頃一番力を持っていた集団さえなんとかしてしまえ...
当時、宗教勢力のトップにいたのは何宗ですか。
当時、宗教勢力のトップにいたのが一向宗(浄土真宗)で、本拠地は、大阪の石山本願寺でした。
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歴史
では、第三期をみていきましょう。全国を統一するために必要なことは二つあって、一つ目が、まず戦国大名のトップに立つことでした。そして二つ目が、宗教勢力を完全に支配してしまうことです。   まず、大名の頂点に立つにはどうしたらいいでしょうか。全国にごまんといる大名を一人ずつ倒していては、とても時間が足りません。ならばどうするか。単純に、一番力を持っている大名を倒せばいいのです。すると他の連中は9割はついてくるでしょう。もしついてこない者がいたら、それはそれで倒してしまえばいいのです。   宗教勢力にも、それと同じことが言えます。親分を倒せば、あとは逃げるかついてくるかするわけで、その頃一番力を持っていた集団さえなんとかしてしまえ...
伊勢長島の一向一揆をいつ制圧しますか。
伊勢長島の一向一揆を1574年に制圧します。
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歴史
当時の大名のトップは誰であったかというと、武田勝頼です。武将の数、軍事力、編成力、どこを見ても他の追従を許しません。そこで、1575年の長篠の戦いで、武田氏の騎馬隊と戦争することになります。   なぜ武田氏が強かったかというと、騎馬隊によるところが大きかったのです。馬で戦うのはなかなか難しいものですから、いい武将でなければ戦争で勝つことはできません。武田武士団といわれるほど、武田氏にはそれがそろっていました。   対して織田側は、あきらかに騎馬戦の能力では武田に劣っていたので、普通にあたっていては勝てません。そこで、鉄砲隊を組織するのに身分の低い足軽を使い、それをうまく使って勝利します。いままでとまるで違う戦法をつかって勝利...
当時の大名のトップは誰でしたか。
当時の大名のトップは誰であったかというと、武田勝頼です。
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歴史
当時の大名のトップは誰であったかというと、武田勝頼です。武将の数、軍事力、編成力、どこを見ても他の追従を許しません。そこで、1575年の長篠の戦いで、武田氏の騎馬隊と戦争することになります。   なぜ武田氏が強かったかというと、騎馬隊によるところが大きかったのです。馬で戦うのはなかなか難しいものですから、いい武将でなければ戦争で勝つことはできません。武田武士団といわれるほど、武田氏にはそれがそろっていました。   対して織田側は、あきらかに騎馬戦の能力では武田に劣っていたので、普通にあたっていては勝てません。そこで、鉄砲隊を組織するのに身分の低い足軽を使い、それをうまく使って勝利します。いままでとまるで違う戦法をつかって勝利...
1575年の長篠の戦いで、だれの騎馬隊と戦争することになりますか。
1575年の長篠の戦いで、武田氏の騎馬隊と戦争することになります。
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歴史
当時の大名のトップは誰であったかというと、武田勝頼です。武将の数、軍事力、編成力、どこを見ても他の追従を許しません。そこで、1575年の長篠の戦いで、武田氏の騎馬隊と戦争することになります。   なぜ武田氏が強かったかというと、騎馬隊によるところが大きかったのです。馬で戦うのはなかなか難しいものですから、いい武将でなければ戦争で勝つことはできません。武田武士団といわれるほど、武田氏にはそれがそろっていました。   対して織田側は、あきらかに騎馬戦の能力では武田に劣っていたので、普通にあたっていては勝てません。そこで、鉄砲隊を組織するのに身分の低い足軽を使い、それをうまく使って勝利します。いままでとまるで違う戦法をつかって勝利...
信長は、なにの戦いにて武田氏を滅ぼしますか。
信長は、天目山の戦いにて武田氏を滅ぼします。