ID stringlengths 13 13 | Category stringclasses 12
values | Context stringlengths 1 4.96k | Question stringlengths 7 248 | GroundtruthAnswer stringlengths 2 663 |
|---|---|---|---|---|
JCRRAG_012201 | 歴史 | 天文十二年八月二十五日、乗員百名以上を乗せた中国の船が種子ヶ島に漂着した。
言葉は通じなかったが、五峯という明国の学生が乗っていて筆談することができた。
ところが、船中に特に異様な二名の人物がいる。一人はフランシスコ、もう一人はダ・モータというポルトガルの商人で二人ともその手に不思議な一物をブラ下げていた。
一物の長さは二・三尺で中央に穴が開いている。持ってみると非常に重い。火が通る路があり、穴の中に火薬を入れ、弾丸を添えて、底をふさいで海岸に的を置いた。
一物を肩に当て腰をひねって横向きに構え、火をつける。電光が走った。雷のような轟音が鳴る。
そして的が射抜かれているのである。見物していた一同は耳をふさいで砂の中に頭を突っ込んだ... | 日本に鉄砲が伝来したのはいつですか。 | 天文十二年八月二十五日、乗員百名以上を乗せた中国の船が種子ヶ島に漂着したこの日が日本に鉄砲が伝来した日と言えるだろう。 |
JCRRAG_012202 | 歴史 | 天文十二年八月二十五日、乗員百名以上を乗せた中国の船が種子ヶ島に漂着した。
言葉は通じなかったが、五峯という明国の学生が乗っていて筆談することができた。
ところが、船中に特に異様な二名の人物がいる。一人はフランシスコ、もう一人はダ・モータというポルトガルの商人で二人ともその手に不思議な一物をブラ下げていた。
一物の長さは二・三尺で中央に穴が開いている。持ってみると非常に重い。火が通る路があり、穴の中に火薬を入れ、弾丸を添えて、底をふさいで海岸に的を置いた。
一物を肩に当て腰をひねって横向きに構え、火をつける。電光が走った。雷のような轟音が鳴る。
そして的が射抜かれているのである。見物していた一同は耳をふさいで砂の中に頭を突っ込んだ... | 鉄砲を実際の戦で初めて使用したのは誰ですか。 | 鉄砲が実戦に使用されたのは十二年後、信玄が川中島の戦いで三百挺の鉄砲を使ったのが最も早かった。 |
JCRRAG_012203 | 歴史 | 天文十二年八月二十五日、乗員百名以上を乗せた中国の船が種子ヶ島に漂着した。
言葉は通じなかったが、五峯という明国の学生が乗っていて筆談することができた。
ところが、船中に特に異様な二名の人物がいる。一人はフランシスコ、もう一人はダ・モータというポルトガルの商人で二人ともその手に不思議な一物をブラ下げていた。
一物の長さは二・三尺で中央に穴が開いている。持ってみると非常に重い。火が通る路があり、穴の中に火薬を入れ、弾丸を添えて、底をふさいで海岸に的を置いた。
一物を肩に当て腰をひねって横向きに構え、火をつける。電光が走った。雷のような轟音が鳴る。
そして的が射抜かれているのである。見物していた一同は耳をふさいで砂の中に頭を突っ込んだ... | 信玄が使った銃はどんなものでしたか。 | 彼の用意した鉄砲は伝来したばかりのまだまだ幼稚なつくりだった。 |
JCRRAG_012204 | 歴史 | 鉄砲の威力を発揮させる使用法を理解した最初の人は信長であった。
信長は理知そのものの化身といえた。彼は一切の宗教に興味がない男であったが、キリスト教徒が同時に新しい学問や芸術などの品を輸入するのでこれを最大限に利用した。
鉄砲だの、時計だの、新しい航海術、天文や医学、なんでも知ってるような白人の坊主共が、神様と言ったとたんに目の色を変えて霊魂は不滅だの最後の審判などとたわいもないことを言い出す。賢い奴らだからなにか魂胆があってこんな事を言ってるんだろうと信長は思っていたが、ある日オルガンチノというバテレンを別室に呼び入れ、家臣を全て遠ざけた。
「さて、お前も商売なんだろうし本当のことを言いたくはないだろうが、今日は家来達も遠ざけた... | 織田信長はキリスト教を信じていましたか。 | 彼は一切の宗教に興味がない男であった。 |
JCRRAG_012205 | 歴史 | 鉄砲の威力を発揮させる使用法を理解した最初の人は信長であった。
信長は理知そのものの化身といえた。彼は一切の宗教に興味がない男であったが、キリスト教徒が同時に新しい学問や芸術などの品を輸入するのでこれを最大限に利用した。
鉄砲だの、時計だの、新しい航海術、天文や医学、なんでも知ってるような白人の坊主共が、神様と言ったとたんに目の色を変えて霊魂は不滅だの最後の審判などとたわいもないことを言い出す。賢い奴らだからなにか魂胆があってこんな事を言ってるんだろうと信長は思っていたが、ある日オルガンチノというバテレンを別室に呼び入れ、家臣を全て遠ざけた。
「さて、お前も商売なんだろうし本当のことを言いたくはないだろうが、今日は家来達も遠ざけた... | 信長が編みだした戦術とはなにか。 | 弾の装填の隙を無くすために鉄砲を三段に分けることにした。三千挺の鉄砲なら、千挺づつ三段にわけて一斉に発射する。同時に敵が突撃してくる速度を落とさせるために、鉄砲の前面に堀を作って柵をこしらえた。この陰から三段の鉄砲で順次に隙間なく撃ち出すことによって敵兵をこちらへ寄せつけず撃退できるだろう、という戦術だった。 |
JCRRAG_012206 | 歴史 | 鉄砲の威力を発揮させる使用法を理解した最初の人は信長であった。
信長は理知そのものの化身といえた。彼は一切の宗教に興味がない男であったが、キリスト教徒が同時に新しい学問や芸術などの品を輸入するのでこれを最大限に利用した。
鉄砲だの、時計だの、新しい航海術、天文や医学、なんでも知ってるような白人の坊主共が、神様と言ったとたんに目の色を変えて霊魂は不滅だの最後の審判などとたわいもないことを言い出す。賢い奴らだからなにか魂胆があってこんな事を言ってるんだろうと信長は思っていたが、ある日オルガンチノというバテレンを別室に呼び入れ、家臣を全て遠ざけた。
「さて、お前も商売なんだろうし本当のことを言いたくはないだろうが、今日は家来達も遠ざけた... | 長篠の戦いで甲州勢は壊滅的な打撃を受けましたか。 | 長篠の戦いにおいて二万の甲州勢は一万七千人も戦死した。 |
JCRRAG_012207 | 歴史 | 鉄砲の威力を発揮させる使用法を理解した最初の人は信長であった。
信長は理知そのものの化身といえた。彼は一切の宗教に興味がない男であったが、キリスト教徒が同時に新しい学問や芸術などの品を輸入するのでこれを最大限に利用した。
鉄砲だの、時計だの、新しい航海術、天文や医学、なんでも知ってるような白人の坊主共が、神様と言ったとたんに目の色を変えて霊魂は不滅だの最後の審判などとたわいもないことを言い出す。賢い奴らだからなにか魂胆があってこんな事を言ってるんだろうと信長は思っていたが、ある日オルガンチノというバテレンを別室に呼び入れ、家臣を全て遠ざけた。
「さて、お前も商売なんだろうし本当のことを言いたくはないだろうが、今日は家来達も遠ざけた... | 文禄の役(朝鮮役)でも鉄砲は活躍しましたか。 | 朝鮮役の快進軍は鉄砲と弓の差でもあった。朝鮮軍は一挺の鉄砲を持っておらず、その存在すら知らなかった。彼らの主戦武器たる弩(いしゆみ)は射程がない。城壁をかこんだ日本軍が鉄砲を撃つ。百雷の音。もくもくとした煙の間から味方がバタバタ倒れて行く。魂が消え失せて、日本軍が縄梯子をかけて城壁をよじ登るのを呆然と見守るばかりで、まるで戦争にならない。大きな道を走るように、京城へ攻めこむことさえできた。 |
JCRRAG_012208 | 歴史 | 信長はその精神的にも内容的にもまさしく近代化の元祖であったが、直弟子の秀吉を経て、家康の代に至って近代化は終わりを告げてしまったのである。
家康は小田原征伐の功労によって、関八州を貰い江戸に移った。
このとき彼が出した最初の法令の一つが「領内で鉄砲を私的に所有することは厳禁」だった。
信長は戦争においてはスピード感を重視した。進軍と共に輸送路を確保する事に重点をおき縦横に道を通じることにおよんで、戦の勝困をつくった。
家康は鉄砲の製造や開発を禁じて、橋を壊して関所を設けて鎖国した。
応仁から信長の時代までに至る戦国時代は弱肉強食や下剋上、信義などなく、保身のためや利益のために裏切り裏切られ、戦術においても外交においても、策略が横... | 江戸時代になったら鉄砲はどうなりましたか。 | 家康は鉄砲の製造や開発を禁じて、橋を壊して関所を設けて鎖国した。 |
JCRRAG_012209 | 歴史 | 長篠の戦いの戦機がいよいよ熟した二十日の夜である。
織田軍の陣中において、戦の前の最後の作戦会議が開かれた。
陣中の余興にと、信長は家康の部下である酒井左衛門尉忠次に「夷舞(えびすまい)」をリクエストし、えびらを叩いて手を打って囃し立てた。
充分な自信があったのであろう。落ちつき払った作戦会議の席であった。
いよいよ会議に入ったら、忠次が真っ先に「鳶ヶ巣の周囲の砦を夜襲して、同時に武田勢の逃げ道を断つのはどうでしょう」と提案した。
そうしたら信長が「こんな愚かな策を真っ先に提案しおって!」と、怒って退出したが、後でこっそり忠次を呼び入れて、「お前の作戦は最高だが、だから外に漏れないようにわざと怒ったのだ」と言って信長の秘蔵の物である... | 織田信長が長篠の戦いの作戦会議で酒井忠次の提案に対しどうしましたか。 | 信長が「こんな愚かな策を真っ先に提案しおって!」と、怒って退出したが、後でこっそり忠次を呼び入れて、「お前の作戦は最高だが、だから外に漏れないようにわざと怒ったのだ」と言って信長の秘蔵の物である「瓢箪板の忍び轡」を与えた。 |
JCRRAG_012210 | 歴史 | 陶晴賢が主君である大内義隆を殺した理由は、義隆が相良遠江守武任を寵愛し優遇したからである。
相良は筑前の人間で義隆に仕えたが、並外れた才智を持っていたので、大内譜代の老臣陶、杉、内藤達より信用されていた。
陶はそれを不快に感じて遂に天文十九年に義隆を殺したのだ。
この事変の時の毛利元就の態度は非常に曖昧だった。陶の方からも義隆の方からも元就のところへ援助を求めて来ている。
元就は隆元、元春、隆景などを集めて相談したが、その時家臣である熊谷伊豆守の「とにかく今回の戦は陶が勝つと思うから、とにかく陶の方へ味方をしておいて、後でタイミングをうかがって陶を倒した方がいいと思う」という意見が通って陶に味方をしているのである。
厳島合戦は... | 陶晴賢が主君である大内義隆を殺した理由はなんですか。 | 陶晴賢が主君である大内義隆を殺した理由は、義隆が相良遠江守武任を寵愛し優遇したからである。 |
JCRRAG_012211 | 歴史 | とにかく毛利元就は、すぐれた才能を持ち大きなはかりごとが出来る武将であった。
幼年時代に厳島にお参りした時に、家臣が「君を中国地方の主にさせてください」と祈ったというのを笑って「何故、日本の主にさせてくれとは祈らないんだ?」といった程の男だ。
だから主君の仇を討つということなどよりも、陶を滅して自分が取って代わってやろうという企らみの方が強かったのである。
北条早雲が横合からとび出して行って、茶々丸を殺して伊豆を取ったやり方などよりは、よっぽど理屈があるけど結局陶晴賢との勢力戦であったのであろう。
元々毛利元就という男は、戦国時代屈指の名将である。
徳川家康と北条早雲を足して2で割ったような大将である。家康を超えるほどの寛容さと... | すぐれた才能を持ち大きなはかりごとが出来る武将であったのは誰ですか。 | すぐれた才能を持ち大きなはかりごとが出来る武将であったのは毛利元就です。 |
JCRRAG_012212 | 歴史 | 厳島の戦いの時、毛利の軍勢は三千五百から六百程度の小勢であった。これに対して陶晴賢は二万余の大軍である。
だから平場の戦いでは毛利はどう頑張っても陶の敵ではない。そこで元就が考えたのは、厳島に城を建てる事だった。
元就は厳島に城を建てて、ここが毛利軍にとって大切な場所であるように見せかけ、ここへ陶の大軍をおびき寄せて、狭い場所で決着を付けようと思ったのである。
元就が厳島へ築城を始めると元就の策略を知らない家臣はみんな反対した。「あんな所へ城を築いてもしこれが陶に取られたら安芸はその腹匕首で刺されるようなものです!」と。
元就はそういう家臣の反対を押し切って要となる害鼻城を築いた。
元就は家来達に対して、「お前達の話を聞か... | 毛利元就が厳島の戦いで厳島に築城したのはなぜですか。 | 元就は厳島に城を建てて、ここが毛利軍にとって大切な場所であるように見せかけ、ここへ陶の大軍をおびき寄せて、狭い場所で決着を付けようと思ったのである。 |
JCRRAG_012213 | 歴史 | 厳島の戦いの時、毛利の軍勢は三千五百から六百程度の小勢であった。これに対して陶晴賢は二万余の大軍である。
だから平場の戦いでは毛利はどう頑張っても陶の敵ではない。そこで元就が考えたのは、厳島に城を建てる事だった。
元就は厳島に城を建てて、ここが毛利軍にとって大切な場所であるように見せかけ、ここへ陶の大軍をおびき寄せて、狭い場所で決着を付けようと思ったのである。
元就が厳島へ築城を始めると元就の策略を知らない家臣はみんな反対した。「あんな所へ城を築いてもしこれが陶に取られたら安芸はその腹匕首で刺されるようなものです!」と。
元就はそういう家臣の反対を押し切って要となる害鼻城を築いた。
元就は家来達に対して、「お前達の話を聞か... | 毛利元就が厳島に築城したのを失敗したと言ったのはなぜですか。 | 戦国の世は日本同士の戦争であるから、スパイは敵にも味方にも沢山入り混じっていた。だから元就のこういう後悔してる姿などはすぐスパイによって敵へ知られることになるが、それが元就の目的だったのである。 |
JCRRAG_012214 | 歴史 | 厳島の戦いの時、毛利の軍勢は三千五百から六百程度の小勢であった。これに対して陶晴賢は二万余の大軍である。
だから平場の戦いでは毛利はどう頑張っても陶の敵ではない。そこで元就が考えたのは、厳島に城を建てる事だった。
元就は厳島に城を建てて、ここが毛利軍にとって大切な場所であるように見せかけ、ここへ陶の大軍をおびき寄せて、狭い場所で決着を付けようと思ったのである。
元就が厳島へ築城を始めると元就の策略を知らない家臣はみんな反対した。「あんな所へ城を築いてもしこれが陶に取られたら安芸はその腹匕首で刺されるようなものです!」と。
元就はそういう家臣の反対を押し切って要となる害鼻城を築いた。
元就は家来達に対して、「お前達の話を聞か... | 厳島の戦いで毛利軍の情報を陶晴賢軍に流していたスパイは誰ですか。 | 一人の座頭が吉田の城下へ来ていた。『平家』などを語りに元就の城へも出入りしている。元就はこの座頭を敵のスパイだと知って、わざと自分のそばへ近づけていた。 |
JCRRAG_012215 | 歴史 | 厳島の戦いの時、毛利の軍勢は三千五百から六百程度の小勢であった。これに対して陶晴賢は二万余の大軍である。
だから平場の戦いでは毛利はどう頑張っても陶の敵ではない。そこで元就が考えたのは、厳島に城を建てる事だった。
元就は厳島に城を建てて、ここが毛利軍にとって大切な場所であるように見せかけ、ここへ陶の大軍をおびき寄せて、狭い場所で決着を付けようと思ったのである。
元就が厳島へ築城を始めると元就の策略を知らない家臣はみんな反対した。「あんな所へ城を築いてもしこれが陶に取られたら安芸はその腹匕首で刺されるようなものです!」と。
元就はそういう家臣の反対を押し切って要となる害鼻城を築いた。
元就は家来達に対して、「お前達の話を聞か... | 陶晴賢は部下の弘中三河守隆兼に進言されてどうしましたか。 | 晴賢は三河守の折角の進言を蹴って、大軍を率いて七百余りの軍船で厳島へ渡ってしまった。 |
JCRRAG_012216 | 歴史 | この厳島の戦いは、元就の一夜陣として有名である。
だが、一夜のうちに毛利一家の存亡を賭けたわけであるが、しかし元就の心のなかには勝利に対する信念が沸き起こっていたのではないかと思われる。
元就は鼓の浦へ着く前に今まで船中に連れて来ていたスパイの座頭を捕えて、「陶への進言よくぞやってくれた、お前のおかげで主君の首が今日中に見れるだろう、先にあの世に行って主君を待っていろ」といって、海に投げて血祭にした。
小早川隆景の当夜の行動には二説ある。隆景は先に漁船に身を隠して宮尾城のピンチを救う為に宮尾城へ入ったと書いてあるが、これは恐らく俗説だろう。
当夜は熊谷信直の部下を従え、厳島神社の大鳥居の方面から敵の兵船の間を抜ける所を敵が待て!... | 厳島の戦いで毛利元就は陶晴賢のスパイをどうしましたか。 | 元就は鼓の浦へ着く前に今まで船中に連れて来ていたスパイの座頭を捕えて、「陶への進言よくぞやってくれた、お前のおかげで主君の首が今日中に見れるだろう、先にあの世に行って主君を待っていろ」といって、海に投げて血祭にした。 |
JCRRAG_012217 | 歴史 | この厳島の戦いは、元就の一夜陣として有名である。
だが、一夜のうちに毛利一家の存亡を賭けたわけであるが、しかし元就の心のなかには勝利に対する信念が沸き起こっていたのではないかと思われる。
元就は鼓の浦へ着く前に今まで船中に連れて来ていたスパイの座頭を捕えて、「陶への進言よくぞやってくれた、お前のおかげで主君の首が今日中に見れるだろう、先にあの世に行って主君を待っていろ」といって、海に投げて血祭にした。
小早川隆景の当夜の行動には二説ある。隆景は先に漁船に身を隠して宮尾城のピンチを救う為に宮尾城へ入ったと書いてあるが、これは恐らく俗説だろう。
当夜は熊谷信直の部下を従え、厳島神社の大鳥居の方面から敵の兵船の間を抜ける所を敵が待て!... | 三浦房清の嘘はどうやって見破られましたか。 | 三浦房清はことごとく討ち死にしてただ一人になって山道で休んでいるところへ、二宮杢之介が馳け付けると、三浦房清は嘘をついて「味方です」という。味方での「で」の字の発音が山口の音だなと思い、二宮は敵だと理解して「合言葉を言え!」と迫った。見破られた三浦房清は立ち上がって奮戦したが、矢に討たれた。 |
JCRRAG_012218 | 歴史 | この厳島の戦いは、元就の一夜陣として有名である。
だが、一夜のうちに毛利一家の存亡を賭けたわけであるが、しかし元就の心のなかには勝利に対する信念が沸き起こっていたのではないかと思われる。
元就は鼓の浦へ着く前に今まで船中に連れて来ていたスパイの座頭を捕えて、「陶への進言よくぞやってくれた、お前のおかげで主君の首が今日中に見れるだろう、先にあの世に行って主君を待っていろ」といって、海に投げて血祭にした。
小早川隆景の当夜の行動には二説ある。隆景は先に漁船に身を隠して宮尾城のピンチを救う為に宮尾城へ入ったと書いてあるが、これは恐らく俗説だろう。
当夜は熊谷信直の部下を従え、厳島神社の大鳥居の方面から敵の兵船の間を抜ける所を敵が待て!... | 陶晴賢の最期はどうなりましたか。 | 陶は、さらに西方に隠れたが、味方の兵や船の影は全くなく、ついに大江浦にて小川伝いに山中に入ってその辺りにて自害したと言われている。 |
JCRRAG_012219 | 歴史 | 川中島における上杉謙信と武田信玄の一騎討ちは、誰もがよく知っているところであるがその合戦の模様については知る人はなかなか少ない。
甲越の二人の将が戦う事になったのは、天文二十二年であり、これ以来二十六年間の交戦状態において、川中島における交戦は数回あったが、主な戦いは弘治元年七月十九日に犀川河畔の戦闘と永禄四年九月十日の川中島合戦との二回だけである。
この九月十日の合戦こそ甲越戦記のクライマックスで、謙信が小豆長光の銘刀をふりかぶって、信玄に斬りかかること九回にわたったと言われている。
武田信玄も、上杉謙信も、その軍隊の編制において、統率において、団体戦法において、用兵において、戦国の猛者達をはるかに凌駕しており、つまり我が国... | 武田信玄が風林火山を旗に記したのはなぜか。 | 経書や兵書に精通しており『孫子』を愛読していて、軍旗に『孫子』軍争編の妙語である「疾如レ風徐如レ林侵略如レ火不レ動如レ山」を二行に書かせていた。 |
JCRRAG_012220 | 歴史 | 川中島の合戦は終わったわけである。
大戦ではあったけれども、政治的には何の効果もなかった。このため、上杉、武田両家とも別にどうなったわけでなく、川中島は元のままであった。
両軍の損傷を比べて見ると、
上杉方
死者三千四百
武田方
死者四千五百
これで見ると、武田方の方がひどくやられている。その上弟の信繁は討ち死に、信玄自身、子の義信も負傷している。
上杉方は、名のある者は、一人も死んでいない。また作戦的には、武田方は巧みに裏をかかれている。
しかし、戦国時代では戦争の勝敗は「芝居を踏みたるを勝ちとす」としてある。芝居というのは、多分戦場ということであろう。
つまり戦場に居残った方が勝ちである。そう考えると、武田方が勝っ... | 豊臣秀吉は、川中島の合戦に勝ったのは武田軍上杉軍どちらだと言っていますか。 | 豊臣秀吉が、川中島の合戦を批評して、「卯の刻より辰の刻までは、上杉の勝ちなり、辰の刻より巳みの刻までは武田方の勝ちなり」と言っている。 |
JCRRAG_012221 | 歴史 | 天正十五年、豊臣秀吉が薩摩の島津義久を討った時に九州全土に力を持っていた島津も、東西の両道から南下する豊臣勢にはかなわずに、たちまち崩壊した程であるから、沿道の小名郷士の輩は頃合いをみて秀吉の軍門に下ったのであった。
秀吉はこの一円を、さいしょは小西行長に治めさせていたが、郷士や土民はよく豊臣の命令に従った。
徳川の天下となった後も、これらの郷士の子孫達は豊臣への恩義を忘れずにあえて徳川幕府に仕える事なく、山間や漁村に隠れて出てこようとしなかった。
行長の残した家臣である益田甚兵衛好次はそれらに隠れ住んでいた浪士の一人である。
始めは肥後の宇土郡にある江辺村にて晴耕雨読の生活を送ること三十余年であったが、寛永十四年に「天草島原... | 天草四郎が衆人から崇められていたのはなぜか。 | 当時は美少年が尊重される世相であったから美少年の四郎はたちまち衆人からあがめられるものとなった。 |
JCRRAG_012222 | 歴史 | 天正十五年、豊臣秀吉が薩摩の島津義久を討った時に九州全土に力を持っていた島津も、東西の両道から南下する豊臣勢にはかなわずに、たちまち崩壊した程であるから、沿道の小名郷士の輩は頃合いをみて秀吉の軍門に下ったのであった。
秀吉はこの一円を、さいしょは小西行長に治めさせていたが、郷士や土民はよく豊臣の命令に従った。
徳川の天下となった後も、これらの郷士の子孫達は豊臣への恩義を忘れずにあえて徳川幕府に仕える事なく、山間や漁村に隠れて出てこようとしなかった。
行長の残した家臣である益田甚兵衛好次はそれらに隠れ住んでいた浪士の一人である。
始めは肥後の宇土郡にある江辺村にて晴耕雨読の生活を送ること三十余年であったが、寛永十四年に「天草島原... | 人民が五人の宗門長老のデマを信じたのはなぜですか。 | 丁度この夏はかんばつで日が照っており、島原では深江村を始め時期外れの桜が咲いたりしたから、人民は簡単にこれらのデマを信じた。 |
JCRRAG_012223 | 歴史 | 天正十五年、豊臣秀吉が薩摩の島津義久を討った時に九州全土に力を持っていた島津も、東西の両道から南下する豊臣勢にはかなわずに、たちまち崩壊した程であるから、沿道の小名郷士の輩は頃合いをみて秀吉の軍門に下ったのであった。
秀吉はこの一円を、さいしょは小西行長に治めさせていたが、郷士や土民はよく豊臣の命令に従った。
徳川の天下となった後も、これらの郷士の子孫達は豊臣への恩義を忘れずにあえて徳川幕府に仕える事なく、山間や漁村に隠れて出てこようとしなかった。
行長の残した家臣である益田甚兵衛好次はそれらに隠れ住んでいた浪士の一人である。
始めは肥後の宇土郡にある江辺村にて晴耕雨読の生活を送ること三十余年であったが、寛永十四年に「天草島原... | キリスト教が九州の島原に広まったのはなぜですか。 | 九州の地は早くから西洋人との交渉があったから、キリスト教もこの地に伝わった。キリスト教伝来の年が西暦一五四九年、島原の乱が同じく一六三七年であるからこの間に九十年近い歳月がある。この長い年月に渡っての、宣教師を始めとした熱烈な伝道は、国禁を忍んで秘かに信仰する大量の信者を作った。 |
JCRRAG_012224 | 歴史 | 「領主板倉氏のキリスト教徒への圧迫と課税の苛酷さは、もう耐えられない。
今年は作物が不作だったし、どうやって耐えられるだろうか。こうなったら非常手段に出るしかないと思う」
この様な論議が色んな村の庄屋の寄り合いの席で持ち出される。
大矢野島と島原との間に湯島と云う小島があるが、信徒等はここに秘密のアジトを設置して、天草島原の両地方の人々が来て会議を行い、策を練った。
後にこの島が「談合島」と呼ばれるようになった理由である。
島原の南有馬村の庄屋である治右衛門に角蔵という弟がいて、北有馬村の百姓である三吉と共に熱烈なキリスト信者であった。
彼等の父はかつて藩の宗教弾圧によって斬られてしまったが、角蔵と三吉は各々の父のドクロと天主像を... | 林兵右衛門が天主の画像を奪って破りかまどに放り投げて燃やしてしまったら、信徒たちはどうしましたか。 | 有江村の佐志木作右衛門の屋敷に信徒が集まっているのを耳にした代官林兵右衛門は単身この家に乗り込んで、天主の画像を奪って破りかまどに放り投げて燃やしてしまった。いままで耐え忍んでいた信徒達もこれを見ては怒らないわけがなかった。そこにいた信徒達四十五人は全員農具を手に取って、兵右衛門を殴り殺した。 |
JCRRAG_012225 | 歴史 | 「領主板倉氏のキリスト教徒への圧迫と課税の苛酷さは、もう耐えられない。
今年は作物が不作だったし、どうやって耐えられるだろうか。こうなったら非常手段に出るしかないと思う」
この様な論議が色んな村の庄屋の寄り合いの席で持ち出される。
大矢野島と島原との間に湯島と云う小島があるが、信徒等はここに秘密のアジトを設置して、天草島原の両地方の人々が来て会議を行い、策を練った。
後にこの島が「談合島」と呼ばれるようになった理由である。
島原の南有馬村の庄屋である治右衛門に角蔵という弟がいて、北有馬村の百姓である三吉と共に熱烈なキリスト信者であった。
彼等の父はかつて藩の宗教弾圧によって斬られてしまったが、角蔵と三吉は各々の父のドクロと天主像を... | 天草四郎が島原の乱で総大将になったのはなぜですか。 | 信徒達も大軍になっていたので、誰か総大将を立てようという論議が出て来た。
なら稀代の天才「天草四郎時貞」こそふさわしいのではとなったので、大矢野宮津の道場に使いを出した。
四郎はその話をすぐに了承して総大将になることにした。 |
JCRRAG_012226 | 歴史 | 天草から島原へ軍を引き返した天草四郎時貞は島原城と富岡城を攻めたあぐねていた所に幕府軍が近づいたので「こうなったら何処かを要害城にして持久戦に持ち込むしかない」と決めた。
口津村の甚右衛門は、かつて有馬氏の治政していた時代にあった古い城である原城を拠点にしようと提案し、みんなが賛同したからこの古い城である原城を修復して立て籠もる事になった。
口津村の松倉藩の倉庫にあったお米五千石、銃二千丁、弓百本はすべて一揆達によって奪い去られた。
幕府の命を受けた使いが有江村の陣に到着した十二月八日には、原城は準備がすっかり整っていたのである。
城の総大将はもちろん天草四郎時貞であるが、その下に作戦指揮官として元有馬家の家臣だった蘆塚忠兵衛年、... | 原城が天草四郎時貞の要害城に選ばれた理由はなにか。 | 天草四郎時貞は島原城と富岡城を攻めたあぐねていた所に幕府軍が近づいたので「こうなったら何処かを要害城にして持久戦に持ち込むしかない」と決めた。口津村の甚右衛門は、かつて有馬氏の治政していた時代にあった古い城である原城を拠点にしようと提案し、みんなが賛同したからこの古い城である原城を修復して立て籠もる事になった。 |
JCRRAG_012227 | 歴史 | 最初に幕府の命令を受けて板倉重昌がすぐに江戸を出発した時に、柳生宗矩はたまたま有馬玄頭邸で能楽を見物していたが、板倉重昌が江戸を出発した話を耳にすると、席を外して外出し、馬に乗って重昌の後を追いかけた。
品川を駆け抜け川崎まで走ったがついに追い着く事が出来なかった。
日が暮れてしまったのでやむを得ず引き返した宗矩はそのまま将軍である徳川家光に謁見して「大至急使いを板倉重昌から変えて欲しい」とお願いした。
幕府の決定を覆すような事を言いだしたので、家光は非常に不機嫌になった。
何も言わず奥に引っ込んだが、夜中になっても宗矩は黙って座ったまま一向に動かない。
折れた家光は、ついに宗矩の話を聞くことにした。その時の宗矩の言い分はこうである... | 板倉重昌が江戸を出発した話を聞いた柳生宗矩はどうしましたか。 | 柳生宗矩はたまたま有馬玄頭邸で能楽を見物していたが、板倉重昌が江戸を出発した話を耳にすると、席を外して外出し、馬に乗って重昌の後を追いかけた。 |
JCRRAG_012228 | 歴史 | 松平信綱はさらに城の中にいる天草四郎の甥である小平を使って小左衛門の手紙を持たせて城内に入らせた。
その手紙の内容というのは、
一、幕府軍はもう数十万以上いる……(中略)江戸からは、キリスト教徒達は殺さず生かして捕らえるように、無駄な戦闘は避けよ、柵の外で殺さず幕府のいう事を聞けと言われている。
一、(前略)城から逃げた者が三・四人いるが、殺さずに金銀を渡して元の村に返して今年の農作業をさせるようにした(後略)
一、将軍の命によって(中略)キリスト教徒は、何才だろうと処刑する事になっている。(中略)無理矢理キリスト教徒にさせられた者は幕府として命は助けてやる(中略)もちろんキリスト教を捨てられない者は城に留まろうが討ち死にしようが好... | 天草四郎の母が、天草四郎に向けて手紙を送ったのはなぜですか。 | 四郎の母は洗礼名を「マルタ」と呼んでおり、天草四郎が蜂起した事に対して、熊本藩によって捕まったのだが「母の為に恐れる事無く立派に戦え」と四郎へ言った程の強い女である。しかしここに至っては肉親の情が湧いて手紙を書いてしまったのだろう。 |
JCRRAG_012229 | 歴史 | 松平信綱はさらに城の中にいる天草四郎の甥である小平を使って小左衛門の手紙を持たせて城内に入らせた。
その手紙の内容というのは、
一、幕府軍はもう数十万以上いる……(中略)江戸からは、キリスト教徒達は殺さず生かして捕らえるように、無駄な戦闘は避けよ、柵の外で殺さず幕府のいう事を聞けと言われている。
一、(前略)城から逃げた者が三・四人いるが、殺さずに金銀を渡して元の村に返して今年の農作業をさせるようにした(後略)
一、将軍の命によって(中略)キリスト教徒は、何才だろうと処刑する事になっている。(中略)無理矢理キリスト教徒にさせられた者は幕府として命は助けてやる(中略)もちろんキリスト教を捨てられない者は城に留まろうが討ち死にしようが好... | 松平信綱の手紙によって城を抜けた人はいましたか。 | 城を抜けた者は三万人前後の中で数名に過ぎず、信仰の力は天下の勢を前にしてゆらぐことはなかった。 |
JCRRAG_012230 | 歴史 | 城中のキリスト教徒も今日が最後になると覚悟したから、矢や銃弾を惜しまずに木石を落し器具に火をつけて投げ必死に防戦を繰り返した。
幕府軍はそこで石火矢を放った。城内は火や煙に包まれて、老人や子供の叫び声はひどいものだった。
板倉重矩は緋縅の鎧に十文字の槍をもち、石谷十蔵と共に城内に乗り込んで、
「我が父重昌の仇を取るために来た!天草四郎時貞!出てきて私と戦え!」と大きな声で叫んだ。
その言葉を聞いた宗徒の部将である有江休意は、黒髪赤顔で眼光鋭く人を射るように六尺の長身をおどらせて現れた。
重矩の従士は左右から槍を突き付けようとしたが、重矩は後方に下がって有江一対一で立ち向かった。
重矩の槍が休意の額を刺し、血が流れて眼に入ったので... | 少年の首はだれの首でしたか。 | 忠利は「少年の首は時貞のものであろう」と信綱に見せる事にした。天草四郎時貞の母を呼んで首を見せると、その少年の首こそ四郎時貞の首であることがわかった。 |
JCRRAG_012231 | 歴史 | 真田幸村の名前には、色々な説がある。
兄の真田信幸は「私の弟の本当の名前は武田信玄の舎弟である典厩と同じ名前だし字も同じだよ」と言っている信繁であることは確実だった。
『真田家古老物語』の著者である桃井友直は「考えた所最初は信繁と名乗りその後に幸重になり、後に信賀と名乗っているのだろう」と言っている。
大阪の陣の前後には幸村が名乗ったのだと思うが『常山紀談』の著者などは、信仍と書いている。
これで見ると徳川時代には信仍で通ったのかも知れない。
しかし、とにかく真田幸村という名前が徳川時代の大衆文学者に採用されたためこの名前が圧倒的に有名になったのだろう。
むかしは姓名判断などはなかったのであるが幸村ほど智才優れた者は何かにつけて... | 真田幸村は本当は真田信繁なのに幸村で定着したのはなぜか。 | 真田幸村という名前が徳川時代の大衆文学者に採用されたためこの名前が圧倒的に有名になったのだろう。 |
JCRRAG_012232 | 歴史 | 真田幸村の名前には、色々な説がある。
兄の真田信幸は「私の弟の本当の名前は武田信玄の舎弟である典厩と同じ名前だし字も同じだよ」と言っている信繁であることは確実だった。
『真田家古老物語』の著者である桃井友直は「考えた所最初は信繁と名乗りその後に幸重になり、後に信賀と名乗っているのだろう」と言っている。
大阪の陣の前後には幸村が名乗ったのだと思うが『常山紀談』の著者などは、信仍と書いている。
これで見ると徳川時代には信仍で通ったのかも知れない。
しかし、とにかく真田幸村という名前が徳川時代の大衆文学者に採用されたためこの名前が圧倒的に有名になったのだろう。
むかしは姓名判断などはなかったのであるが幸村ほど智才優れた者は何かにつけて... | 家康は真田家に対して沼田を北条へ渡してくれという提案を断られてどうしましたか。 | 家康は怒って、大久保忠世、鳥居元忠、井伊直政達に攻めさせた。 |
JCRRAG_012233 | 歴史 | 真田幸村の名前には、色々な説がある。
兄の真田信幸は「私の弟の本当の名前は武田信玄の舎弟である典厩と同じ名前だし字も同じだよ」と言っている信繁であることは確実だった。
『真田家古老物語』の著者である桃井友直は「考えた所最初は信繁と名乗りその後に幸重になり、後に信賀と名乗っているのだろう」と言っている。
大阪の陣の前後には幸村が名乗ったのだと思うが『常山紀談』の著者などは、信仍と書いている。
これで見ると徳川時代には信仍で通ったのかも知れない。
しかし、とにかく真田幸村という名前が徳川時代の大衆文学者に採用されたためこの名前が圧倒的に有名になったのだろう。
むかしは姓名判断などはなかったのであるが幸村ほど智才優れた者は何かにつけて... | 家康は真田の長男である信幸を、本多忠勝の婿にしようとして秀吉に相談したらどうなったか。 | 家康は即座に本多忠勝の娘を自分の養女にして、信幸の嫁にさせた。 |
JCRRAG_012234 | 歴史 | 真田幸村の名前には、色々な説がある。
兄の真田信幸は「私の弟の本当の名前は武田信玄の舎弟である典厩と同じ名前だし字も同じだよ」と言っている信繁であることは確実だった。
『真田家古老物語』の著者である桃井友直は「考えた所最初は信繁と名乗りその後に幸重になり、後に信賀と名乗っているのだろう」と言っている。
大阪の陣の前後には幸村が名乗ったのだと思うが『常山紀談』の著者などは、信仍と書いている。
これで見ると徳川時代には信仍で通ったのかも知れない。
しかし、とにかく真田幸村という名前が徳川時代の大衆文学者に採用されたためこの名前が圧倒的に有名になったのだろう。
むかしは姓名判断などはなかったのであるが幸村ほど智才優れた者は何かにつけて... | 小田原征伐が起こったのはなぜですか。 | 豊臣秀吉は北条家の条約違反に怒って、ついに小田原征討を決心したのである。 |
JCRRAG_012235 | 歴史 | 関ヶ原の戦いの時に、真田家父子三人が徳川家康に従って会津へ向かう途中に石田三成からの使者が来た。
真田昌幸は信幸、幸村の兄弟にその事を告げて相談した。
昌幸は「もちろん大阪の味方になろう」と言った。
兄の信幸「家康は天皇のように百万を超える人達を従えている。だから討ち滅ぼされるような人ではないのだろう、徳川方に味方するのが良いと思う」という。
書物によると、ここで信幸と幸村の二人が激論を交わしているという。
信幸「私は本多忠勝と親しい関係だ。だから石田側に付くわけにはいかない」と言えば、
幸村「嫁さんの縁に引かれて父親に弓を引くとはな」と言う。
信幸「石田三成の味方をすれば必ず敗けるだろう。その時味方に付いた者達は必ず殺... | 関ケ原の戦いの際、真田家父子三人は話し合ってどうしましたか。 | 昌幸はどっちにつくかという兄弟喧嘩を仲裁し、私は幸村と同じ考えだから幸村と共に引き返そうと思う。信幸は自分の心のままに動くがいい、といって幸村と昌幸、信幸は別れた。 |
JCRRAG_012236 | 歴史 | ボイルの時代には、気体といえば空気だけしか知られていなかったのですが、この空気がいろいろ大切な役目をもっていることをもボイルは明らかにしたのでした。空気が音を伝えることもその一つですが、また空気がなければ火が燃えないことをも実験で確かめました。そのほかに人間や動物などは空気を呼吸して生きていることをもはっきりと知っていたので、魚が水のなかで生きているのは、水のなかに溶けて含まれている空気を魚が呼吸しているからだということをも述べています。これも今では誰でも知っている事がらなのですが、その当時としてはやはりすぐれた考え方であったので、すべて生物には空気を呼吸することが必要であるとしたのは、生物学の上でも重要な意味をもつ事柄であったので... | ボイルの法則ができてなにがわかりましたか。 | 古い昔には、ある場所から空気をとり除けようとしても、直ぐによそから空気がそこへ入り込んで来て、真空にはならなかったので、その事から自然は真空を嫌うのだということが一般に信じられていたのでした。しかしこの事実は、空気が圧力の小さい方へひろがってゆくという関係が分かれば、それで説明ができるのですから、ボイルの法則の発見で、もはやそれは不思議でも何でもなくなったわけです。 |
JCRRAG_012237 | 歴史 | 関ヶ原の戦の後に真田昌幸と真田幸村の父子は、高野山のふもとにある九度禿の宿に引退しました。
この時発明した内職が、真田紐であるという。そして昌幸は六十七歳で死ぬことになる。
昌幸は死を前にして「私が死後三年以内に必ず、東西は手切れとなるだろう。私が生きていれば、相当の自信があるが」といって嘆いた。
幸村は「ぜひそうなった時の対策を教えてくれ」といった。
昌幸は「策を教えるのは簡単だが、お前は私ほどの人望がないから、策を教えてもできないだろう」と言った。
幸村が是非にというので「東西手切れになったら、軍を率いてまずは美野の青野ヶ原で敵を迎えるのだ。しかしそれは東軍と決戦するのではなく、かるくあしらって次は瀬田へ下がるのだ。
そこでも、... | 若き武士が幸村の刀を抜いたらどうなりましたか。 | 若き武士が幸村の刀を抜いて見ると、刃の匂いや金の光が非常に素晴らしいモノだった。脇差もまた同様だった。これはとんでもないぞと中子を見ると刀は正宗で脇差は貞宗であった。 |
JCRRAG_012238 | 歴史 | 関ヶ原の戦の後に真田昌幸と真田幸村の父子は、高野山のふもとにある九度禿の宿に引退しました。
この時発明した内職が、真田紐であるという。そして昌幸は六十七歳で死ぬことになる。
昌幸は死を前にして「私が死後三年以内に必ず、東西は手切れとなるだろう。私が生きていれば、相当の自信があるが」といって嘆いた。
幸村は「ぜひそうなった時の対策を教えてくれ」といった。
昌幸は「策を教えるのは簡単だが、お前は私ほどの人望がないから、策を教えてもできないだろう」と言った。
幸村が是非にというので「東西手切れになったら、軍を率いてまずは美野の青野ヶ原で敵を迎えるのだ。しかしそれは東軍と決戦するのではなく、かるくあしらって次は瀬田へ下がるのだ。
そこでも、... | 真田昌幸が死ぬ前に幸村に話した対策が、自分にはできるが幸村にはできないという話は当たりましたか。 | 後に幸村が大阪に入城した冬の陣の時、城を出て東軍を迎撃したほうがいいと主張したが、採用されなかった。昌幸の見通した通りである。 |
JCRRAG_012239 | 歴史 | 関ヶ原の戦の後に真田昌幸と真田幸村の父子は、高野山のふもとにある九度禿の宿に引退しました。
この時発明した内職が、真田紐であるという。そして昌幸は六十七歳で死ぬことになる。
昌幸は死を前にして「私が死後三年以内に必ず、東西は手切れとなるだろう。私が生きていれば、相当の自信があるが」といって嘆いた。
幸村は「ぜひそうなった時の対策を教えてくれ」といった。
昌幸は「策を教えるのは簡単だが、お前は私ほどの人望がないから、策を教えてもできないだろう」と言った。
幸村が是非にというので「東西手切れになったら、軍を率いてまずは美野の青野ヶ原で敵を迎えるのだ。しかしそれは東軍と決戦するのではなく、かるくあしらって次は瀬田へ下がるのだ。
そこでも、... | 真田幸村はどうやって大阪城に入城しましたか。 | 幸村は父親である真田昌幸の法事をやるといって、付近の名主や大庄屋と言った連中を招待して酒が飲める飲めないの区別なく酒を飲ませ酔いつぶしてしまった。その間に前から用意した支度をきびきびとした動きで百姓たちが乗っている馬に荷物を付けて、百人ばかりの同勢にて、槍、長刀や刀の鞘を外し、鉄砲には火縄をつけ、紀伊川を渡り、大阪を目指して出発した。 |
JCRRAG_012240 | 歴史 | 東西手切れとなった瞬間に真田幸村は城を出て東軍を迎え撃つべきだと力説した。
後藤又兵衛もまた真田幸村の説を採用するべきだと後押ししたが、大野や渡辺などが聞き入れてくれず、ついに籠城をするべきだという説が勝った。
籠城の準備として大阪城へ大軍が進むであろう道は南側しかないので、こっちの方面に砦を築く事になった。
玉造口を隔てて笹山があり、砦を築くには非常に好都合な所なのでさっそく砦の構築にかかったが、その工事に従事している人夫達が、いつの間にか「この出丸を堅固に守れる人は、真田幸村以外にいないだろう」と言い合って、いつの間にか真田丸という名前が付いてしまった。
城の中で会議した結果、真田幸村は守備の将をやるようにと命じられた。
し... | なぜ真田丸と名前が付きましたか。 | 砦の構築にかかったが、その工事に従事している人夫達が、いつの間にか「この出丸を堅固に守れる人は、真田幸村以外にいないだろう」と言い合って、いつの間にか真田丸という名前が付いてしまった。 |
JCRRAG_012241 | 歴史 | 東西手切れとなった瞬間に真田幸村は城を出て東軍を迎え撃つべきだと力説した。
後藤又兵衛もまた真田幸村の説を採用するべきだと後押ししたが、大野や渡辺などが聞き入れてくれず、ついに籠城をするべきだという説が勝った。
籠城の準備として大阪城へ大軍が進むであろう道は南側しかないので、こっちの方面に砦を築く事になった。
玉造口を隔てて笹山があり、砦を築くには非常に好都合な所なのでさっそく砦の構築にかかったが、その工事に従事している人夫達が、いつの間にか「この出丸を堅固に守れる人は、真田幸村以外にいないだろう」と言い合って、いつの間にか真田丸という名前が付いてしまった。
城の中で会議した結果、真田幸村は守備の将をやるようにと命じられた。
し... | 真田幸村が真田丸を守る事になったのはなぜですか。 | 後藤が「人夫どもまでが真田丸といっている以上、真田幸村が引き受けないってのは良く無いんじゃないか?」と言ったので、「そういうことならば縄張りも自分にやらせてほしい」と言って引き受けた。 |
JCRRAG_012242 | 歴史 | 東西手切れとなった瞬間に真田幸村は城を出て東軍を迎え撃つべきだと力説した。
後藤又兵衛もまた真田幸村の説を採用するべきだと後押ししたが、大野や渡辺などが聞き入れてくれず、ついに籠城をするべきだという説が勝った。
籠城の準備として大阪城へ大軍が進むであろう道は南側しかないので、こっちの方面に砦を築く事になった。
玉造口を隔てて笹山があり、砦を築くには非常に好都合な所なのでさっそく砦の構築にかかったが、その工事に従事している人夫達が、いつの間にか「この出丸を堅固に守れる人は、真田幸村以外にいないだろう」と言い合って、いつの間にか真田丸という名前が付いてしまった。
城の中で会議した結果、真田幸村は守備の将をやるようにと命じられた。
し... | 大阪冬の陣で真田丸は破られましたか。 | 真田丸の砦は、大阪冬の陣中、遂に破られなかった。 |
JCRRAG_012243 | 歴史 | 東西手切れとなった瞬間に真田幸村は城を出て東軍を迎え撃つべきだと力説した。
後藤又兵衛もまた真田幸村の説を採用するべきだと後押ししたが、大野や渡辺などが聞き入れてくれず、ついに籠城をするべきだという説が勝った。
籠城の準備として大阪城へ大軍が進むであろう道は南側しかないので、こっちの方面に砦を築く事になった。
玉造口を隔てて笹山があり、砦を築くには非常に好都合な所なのでさっそく砦の構築にかかったが、その工事に従事している人夫達が、いつの間にか「この出丸を堅固に守れる人は、真田幸村以外にいないだろう」と言い合って、いつの間にか真田丸という名前が付いてしまった。
城の中で会議した結果、真田幸村は守備の将をやるようにと命じられた。
し... | 叔父の信尹に、徳川家康が信濃一国を渡すからと徳川家に付いてくれと言っていると聞かされた真田幸村はどうしましたか。 | 幸村は叔父の信尹に対して、「信濃一国だけじゃなく天下を渡すと言われても、秀頼公に背いたり不義をするようなことはできない。またこんな事言いに来たら次は命の保証はしませんよ」と追い返した。 |
JCRRAG_012244 | 歴史 | 和平が成立した時に真田幸村は後藤又兵衛とともに「関東から提案された停戦交渉は、なにか策略があるに違いない」と力説して「秀頼公の許可は取れないだろう」と言ったのだが、
例によってこの提案は大野、渡辺等は受け入れてくれなかったのである。
幸村は原隼人とはお互いに武田家の家臣だった時代からの旧友であったので、彼を招いてもてなした。
酒を酌み交わした後、幸村は小鼓を取り出して自ら打ち始め、息子である大助に「曲舞」を舞わせて楽しんだ。
それから庭に出て白河原毛のたくましい馬に六文銭をあしらった鞍を置いてゆらりと跨った。
五・六度乗り回して、友人の原に見せつけ「次の戦では、城が壊れてしまえば、平場の戦になるだろう。私は天王寺表へ乗り出し、... | 真田丸をどっちが壊すかで真田幸村と本多正純が争っているという話を聞いた家康はどうしましたか。 | 家康は「幸村が壊すのが正しいだろう、正純が間違っているな」と、早速判決を下して幸村に自分の手で壊す事を許した。 |
JCRRAG_012245 | 歴史 | 真田昌幸と真田幸村は、信州へ引き返す途中に沼田へ立ち寄ろうとした。
沼田城は真田信幸の居城であり、信幸の妻たるあの本多忠勝の娘である小松姫が留守を守っていたが、昌幸が入城しようとすると
「すでに父と子が敵対関係となっている以上、たとえ父だろうと城に入れるわけにはいかない!」と城門を閉ざして女房共に武装させて、二人を入れることを拒んだ。
真田昌幸は怒るどころか感心して「さすが日本一と世にいえる本多忠勝の娘よ。弓取の妻はこうあるべきよ!」と寄らずに上田へ帰った。
本多平八郎忠勝は、徳川家随一の剛将である。小牧山の役においてたった五百騎で、秀吉の数万の大軍を牽制して、秀吉を感嘆させた男である。
蜻蛉切りという長い槍を持っている随一の武功... | 真田昌幸と真田幸村は、信州へ引き返す途中に沼田城へ立ち寄ろうとしたらどうなりましたか。 | 沼田城は真田信幸の居城であり、信幸の妻たるあの本多忠勝の娘である小松姫が留守を守っていたが、昌幸が入城しようとすると「すでに父と子が敵対関係となっている以上、たとえ父だろうと城に入れるわけにはいかない!」と城門を閉ざして女房共に武装させて、二人を入れることを拒んだ。 |
JCRRAG_012246 | 歴史 | 夜がほんのりと明け始めた。
そこで東の門を覗いてみると、中は静まり返って、人の気配もなかった。
なんだろう、と言い合いながら東の門を開いて味方を通そうとしている所へ、越前勢の先手がやっとのところで押し寄せて来た。
大和川に流された吉田修理亮に代わって、本多飛騨守、松平壱岐守達を含む二千余騎の軍勢である。
だが石川や宮木は、これを真田勢が来襲してきたのだと思い違ってしまい、凄まじい同志討ちがここに始まった。
石川や宮木質が葵の紋に気付いた時は、すでに手の施しようのないほどの激しい戦いになっていた。
ようやくのことで彼等が兜を脱いで、大地にひざまずいたので、越前勢も静まった。
しかしこんな不始末が家康に知られてはどんなことになる... | 家康は「棄旗」と書かれた文字を見てどうしましたか。 | 「実に武略の人よ」と家康は真田幸村に対して讃嘆したとある。 |
JCRRAG_012247 | 歴史 | 夜がほんのりと明け始めた。
そこで東の門を覗いてみると、中は静まり返って、人の気配もなかった。
なんだろう、と言い合いながら東の門を開いて味方を通そうとしている所へ、越前勢の先手がやっとのところで押し寄せて来た。
大和川に流された吉田修理亮に代わって、本多飛騨守、松平壱岐守達を含む二千余騎の軍勢である。
だが石川や宮木は、これを真田勢が来襲してきたのだと思い違ってしまい、凄まじい同志討ちがここに始まった。
石川や宮木質が葵の紋に気付いた時は、すでに手の施しようのないほどの激しい戦いになっていた。
ようやくのことで彼等が兜を脱いで、大地にひざまずいたので、越前勢も静まった。
しかしこんな不始末が家康に知られてはどんなことになる... | 真田幸村が大助を城に返した理由はなんですか。 | もし秀頼の命が助かるような事があれば、大助をもう一度世に出したいという親心が動いていた。 |
JCRRAG_012248 | 歴史 | 真田幸村の最期の戦いは越前勢の大軍を真っ向に受ける形で開始された。天王寺・岡山の戦いである。
幸村は何度も越前勢をなやませながら、天王寺と一心寺との間の竜の丸で待機して兵士達に食料を食べさせた。
幸村はここでひとまず休憩をいれて、その間に明石掃部助全登をして今宮表より阿部野へ迂回させて、家康の本陣を後より襲おうとしたが、この計画は松平武蔵守の軍勢に邪魔されてなかなかできなかった。
そこで、幸村は毛利勝永と話し合って、いよいよ秀頼公に出陣してもらう事をお願いしようと決めた。
秀頼公が御旗や御馬印を玉造口まで押し出して、敵の勢力を割いて明石の軍を目的地に進ませる計画だった。
真田の穴山小助、毛利の古林一平次達がその緊急の使者として... | 真田幸村はなぜ「もはやこれまでだな」と思ったのか。 | 幸村は、ついに三方から敵を受けたのである。 |
JCRRAG_012249 | 歴史 | 真田幸村の最期の戦いは越前勢の大軍を真っ向に受ける形で開始された。天王寺・岡山の戦いである。
幸村は何度も越前勢をなやませながら、天王寺と一心寺との間の竜の丸で待機して兵士達に食料を食べさせた。
幸村はここでひとまず休憩をいれて、その間に明石掃部助全登をして今宮表より阿部野へ迂回させて、家康の本陣を後より襲おうとしたが、この計画は松平武蔵守の軍勢に邪魔されてなかなかできなかった。
そこで、幸村は毛利勝永と話し合って、いよいよ秀頼公に出陣してもらう事をお願いしようと決めた。
秀頼公が御旗や御馬印を玉造口まで押し出して、敵の勢力を割いて明石の軍を目的地に進ませる計画だった。
真田の穴山小助、毛利の古林一平次達がその緊急の使者として... | 真田幸村の死後、幸村の首と太刀はどうなりましたか。 | 幸村の首級と太刀は、後に兄の信幸が受け取ったので、信幸は首級は高野山天徳院に埋葬し、太刀は自らが受け取り真田家の家宝とした。 |
JCRRAG_012250 | 歴史 | 真田幸村の最期の戦いは越前勢の大軍を真っ向に受ける形で開始された。天王寺・岡山の戦いである。
幸村は何度も越前勢をなやませながら、天王寺と一心寺との間の竜の丸で待機して兵士達に食料を食べさせた。
幸村はここでひとまず休憩をいれて、その間に明石掃部助全登をして今宮表より阿部野へ迂回させて、家康の本陣を後より襲おうとしたが、この計画は松平武蔵守の軍勢に邪魔されてなかなかできなかった。
そこで、幸村は毛利勝永と話し合って、いよいよ秀頼公に出陣してもらう事をお願いしようと決めた。
秀頼公が御旗や御馬印を玉造口まで押し出して、敵の勢力を割いて明石の軍を目的地に進ませる計画だった。
真田の穴山小助、毛利の古林一平次達がその緊急の使者として... | 家康はなぜ気を揉んだのか。 | 徳川は三方の軍勢を合わせて三万五千人、真田勢はわずかに二千人余り。本来なら徳川が圧倒的有利にも関わらず戦況がかんばしくないのである。 |
JCRRAG_012251 | 歴史 | ワットの蒸気機関が蒸気の力を利用したものであることは、誰も知っている通りですが、蒸気が物を動かすだけの力をもっているということは非常に古くから知られていたのですし、それを利用しようと考えた人々もたくさんにあったのでした。それでも一つの立派な機械が発明されるまでには、いろいろな段階を経て、だんだんにそこに到達しなくてはならないので、蒸気機関のでき上がって来た道筋などは、それのよい例を示しているといってよいのでしょう。
蒸気を利用したものの中で最も古く知られているのは、西洋紀元前百数十年という頃にアレキサンドリアのヘロンという人のつくった一つの装置です。この人はいろいろな機械を工夫したので名だかいのですが、蒸気をつかって球をぐるぐる... | ドニ・パパンが作った蒸気を使った機械はなぜ非常に意味があるのですか。 | 蒸気のはたらきを利用した最初のものと見なされる点で重要な意味をもっているのです。 |
JCRRAG_012252 | 歴史 | 蒸気機関がこのようにしてだんだん実用に供せられるようになりましたが、この頃のものはいかにも不経済のものでありました。なぜかといえば気筒のなかの熱い蒸気を外から水を注ぎ込んでさましてしまうというのですから、また次に蒸気を送るのにつけても一時冷たくしてしまうのはそれだけ熱をむだにすることになるからです。そのほかに蒸気の力の利用も十分にはされていないので、その強い力を直接つかう方法がまた考えられなくてはならなかったのでした。しかしこれらの点の改良はなかなかむずかしかったので、その後いくらかずつの考案を行った人たちもいたのでしたが、結局ワットの出るまではうまく成功しなかったのです。
ジェームズ・ワットは一七三六年の一月十九日にイギリスのグ... | ジェームズ・ワットはどこで生まれましたか。 | ジェームズ・ワットはイギリスのグリノックという小さな港町で生まれました。 |
JCRRAG_012253 | 歴史 | パストゥールの学問上の仕事は非常にたくさんあって、ここでそれを一々こまかくお話ししているわけにはゆきませんが、ごく大体をいえば微生物に関する研究と、それで起される病気からの免疫の方法を明らかにしたことであります。
まず微生物が自然に発生するものではないということに対しては、たとえ空気があっても、それが完全にきれいであれば微生物が決して発生しないということを、実験で示しました。
普通の空気のなかにはどこにでも腐敗をおこさせる細菌がいるのですが、場所によってはそれの少ない処もあるので、人家から離れたへんぴな場所や高い山の上ではそうであることを実験で示しました。
そして高さ三千メートルもあるモンブランの山の頂きでは腐敗がほとんど起らないこ... | フランス政府がパストゥールにぺブラン病の研究を依嘱したらどうなりましたか。 | 彼はそれから五年間いろいろな苦心を重ねてこれをしらべた末に、ついに蚕から出る蛾のからだのなかに病原となる微生物のあるのを見つけ出し、その後この病気の予防法をも明らかにしました。 |
JCRRAG_012254 | 歴史 | ワットはその後いろいろな仕事を行ったのですが、蒸気機関に興味をもつようになったのは、ちょうど一七六三年の頃にグラスゴー大学からニューコメンの蒸気機関の模型を修繕するように頼まれたことにありました。つまりこの事が後のワットの発明を結果することにもなったのですから、まことに運命というものは不思議でもあります。
ワットはそれまでは蒸気のはたらきについていくらの知識ももっていなかったのでしたが、この模型をしらべてゆくうちにいろいろな事を知りました。それでともかく模型を修理したものの、この機関にはいろいろな欠点があることもわかり、それを何とか改良したいと思い立ったのでした。最もいけないことは、上にも述べましたように気筒のなかの熱い蒸気に水を... | ワットの凝結器は蒸気機関にとってどれだけ重要でしたか。 | ワットはその蒸気をよその場所に導いて来て、そこで冷やすようにしたならよかろうと考え、気筒から別に管をつけて他の器につなぎ、その器を水で冷やすようにしました。これは今では凝結器と言われているものです。この方法で蒸気はよそで冷えることになりますから、気筒の温度は下がらないですむことになりました。つまりそれだけ蒸気を出すための燃料が節約されることになるので、これは実に蒸気機関にとって重要な意味をもっているのです。 |
JCRRAG_012255 | 歴史 | ワットはその後いろいろな仕事を行ったのですが、蒸気機関に興味をもつようになったのは、ちょうど一七六三年の頃にグラスゴー大学からニューコメンの蒸気機関の模型を修繕するように頼まれたことにありました。つまりこの事が後のワットの発明を結果することにもなったのですから、まことに運命というものは不思議でもあります。
ワットはそれまでは蒸気のはたらきについていくらの知識ももっていなかったのでしたが、この模型をしらべてゆくうちにいろいろな事を知りました。それでともかく模型を修理したものの、この機関にはいろいろな欠点があることもわかり、それを何とか改良したいと思い立ったのでした。最もいけないことは、上にも述べましたように気筒のなかの熱い蒸気に水を... | ワットは蒸気機関の発明によって名声を担いましたか。 | 一七八四年にはエディンバラ王立協会の会員に選ばれ、その翌年にはロンドン王立協会の会員となり、さらに一八一四年にはフランスのアカデミーの外国会員にも選ばれて、多大の名声を一身に担いました。 |
JCRRAG_012256 | 歴史 | ワットはその後いろいろな仕事を行ったのですが、蒸気機関に興味をもつようになったのは、ちょうど一七六三年の頃にグラスゴー大学からニューコメンの蒸気機関の模型を修繕するように頼まれたことにありました。つまりこの事が後のワットの発明を結果することにもなったのですから、まことに運命というものは不思議でもあります。
ワットはそれまでは蒸気のはたらきについていくらの知識ももっていなかったのでしたが、この模型をしらべてゆくうちにいろいろな事を知りました。それでともかく模型を修理したものの、この機関にはいろいろな欠点があることもわかり、それを何とか改良したいと思い立ったのでした。最もいけないことは、上にも述べましたように気筒のなかの熱い蒸気に水を... | ジェームズワットは蒸気機関の発明で金持ちになりましたか。 | これ等の発明に凝っていた一方では、それだけ生活にも困ることになったので、土地測量の仕事を行ったり、そのほかいろいろな事をしなければならなかったのでした。 |
JCRRAG_012257 | 歴史 | ワットはその後いろいろな仕事を行ったのですが、蒸気機関に興味をもつようになったのは、ちょうど一七六三年の頃にグラスゴー大学からニューコメンの蒸気機関の模型を修繕するように頼まれたことにありました。つまりこの事が後のワットの発明を結果することにもなったのですから、まことに運命というものは不思議でもあります。
ワットはそれまでは蒸気のはたらきについていくらの知識ももっていなかったのでしたが、この模型をしらべてゆくうちにいろいろな事を知りました。それでともかく模型を修理したものの、この機関にはいろいろな欠点があることもわかり、それを何とか改良したいと思い立ったのでした。最もいけないことは、上にも述べましたように気筒のなかの熱い蒸気に水を... | ジェームズワットがウェストミンスター寺院に彫像が建てられたのはなぜか。 | ワットの遺骸はハンズワース教区にある教会の墓地に葬られましたが、一八二四年にはウェストミンスター寺院のなかにその彫像が建てられ、イギリスでの最大の栄誉にもなったのでした。 |
JCRRAG_012258 | 歴史 | メンデルの名はグレゴール・ヨハンというのですが、一八二一年の七月二十二日にオーストリアのシュレジーエンにあるごく小さな村ハインツェンドルフで生まれました。家は農家でしたが、中学に当たるギムナジウムを卒業してから、ブリュンというところにある僧院で神学教育を受け、それを終えて一八四七年にそこの僧院の司祭となりました。そしてそれでともかく一人前の僧侶となったのですが、メンデルにはそのような僧職がどうも十分には気が向かないように感じられました。それで何か学問を修めたいという心がしきりに起こって来たので、遂に決心を定めて、一八五一年にオーストリーの首都であるヴィーンに赴き、そこの大学に入って、数学、物理学、および博物学を熱心に学びました。メ... | メンデルはなぜ僧職を勤めていたのに学問を学ぶことにしたのですか。 | メンデルにはそのような僧職がどうも十分には気が向かないように感じられました。それで何か学問を修めたいという心がしきりに起こって来たので、遂に決心を定めて、一八五一年にオーストリーの首都であるヴィーンに赴き、そこの大学に入って、数学、物理学、および博物学を熱心に学びました。 |
JCRRAG_012259 | 歴史 | メンデルの名はグレゴール・ヨハンというのですが、一八二一年の七月二十二日にオーストリアのシュレジーエンにあるごく小さな村ハインツェンドルフで生まれました。家は農家でしたが、中学に当たるギムナジウムを卒業してから、ブリュンというところにある僧院で神学教育を受け、それを終えて一八四七年にそこの僧院の司祭となりました。そしてそれでともかく一人前の僧侶となったのですが、メンデルにはそのような僧職がどうも十分には気が向かないように感じられました。それで何か学問を修めたいという心がしきりに起こって来たので、遂に決心を定めて、一八五一年にオーストリーの首都であるヴィーンに赴き、そこの大学に入って、数学、物理学、および博物学を熱心に学びました。メ... | メンデルが遺伝に興味を持ったのはなぜですか。 | 僧院のなかに自分でいろいろの動物を飼ったり、また植物を栽培して、それらをこまかく観察することを楽しみとしました。そしてその間に遺伝の問題に不思議を感じ、これを実験して見ようと思い立ったのです。 |
JCRRAG_012260 | 歴史 | メンデルの名はグレゴール・ヨハンというのですが、一八二一年の七月二十二日にオーストリアのシュレジーエンにあるごく小さな村ハインツェンドルフで生まれました。家は農家でしたが、中学に当たるギムナジウムを卒業してから、ブリュンというところにある僧院で神学教育を受け、それを終えて一八四七年にそこの僧院の司祭となりました。そしてそれでともかく一人前の僧侶となったのですが、メンデルにはそのような僧職がどうも十分には気が向かないように感じられました。それで何か学問を修めたいという心がしきりに起こって来たので、遂に決心を定めて、一八五一年にオーストリーの首都であるヴィーンに赴き、そこの大学に入って、数学、物理学、および博物学を熱心に学びました。メ... | メンデルはえんどう豆の実験の結果何を見つけましたか。 | 一八六五年にブリュンの博物学会の会合の席で発表し、その翌年にはこの学会の記要に「雑種植物の研究」という題で、論文を公にしました。 |
JCRRAG_012261 | 歴史 | メンデルの名はグレゴール・ヨハンというのですが、一八二一年の七月二十二日にオーストリアのシュレジーエンにあるごく小さな村ハインツェンドルフで生まれました。家は農家でしたが、中学に当たるギムナジウムを卒業してから、ブリュンというところにある僧院で神学教育を受け、それを終えて一八四七年にそこの僧院の司祭となりました。そしてそれでともかく一人前の僧侶となったのですが、メンデルにはそのような僧職がどうも十分には気が向かないように感じられました。それで何か学問を修めたいという心がしきりに起こって来たので、遂に決心を定めて、一八五一年にオーストリーの首都であるヴィーンに赴き、そこの大学に入って、数学、物理学、および博物学を熱心に学びました。メ... | メンデルの研究がメンデルの法則と名付けられたことをメンデルは知っていますか。 | 古い論文をしらべてゆくうちに、メンデルの研究が見つけ出されたのです。そしてすでに三十五年も前に、メンデルが立派に同じ結果を出して居て、かつそれを詳しく説明していることまで、すっかりわかったのでした。それでこれをメンデルの法則とたたえるようになったのです。メンデルはつまりこのような事を何も知らないで、亡くなったのでした。 |
JCRRAG_012262 | 歴史 | メンデルが僧院の庭で長い年月をかけていろいろと苦心した上にようやく見つけ出したメンデルの法則というのは、どういうものかということを、ここでなるべくわかり易く説明してみましょう。
それはまず親から子に遺伝する性質のなかには、優性と劣性として区別される二種類の性質があって、優性をもっているものと、劣性をもっているものと交配させると、それから生まれてくるものは大体において優性をそなえているというのです。これを優性の法則といいます。しかしこのようにして出来た雑種をもう一度おたがいに交配させると、今度は優性と劣性とが分離して現れ、優性のもの3に対して劣牲のもの1という割合で第二代目の雑種が生ずるのです。これはメンデルの分離の法則といわれてい... | メンデルの分離の法則を教えてください。 | 優性のもの3に対して劣牲のもの1という割合で第二代目の雑種が生ずるのです。これはメンデルの分離の法則といわれています。 |
JCRRAG_012263 | 歴史 | メンデルが僧院の庭で長い年月をかけていろいろと苦心した上にようやく見つけ出したメンデルの法則というのは、どういうものかということを、ここでなるべくわかり易く説明してみましょう。
それはまず親から子に遺伝する性質のなかには、優性と劣性として区別される二種類の性質があって、優性をもっているものと、劣性をもっているものと交配させると、それから生まれてくるものは大体において優性をそなえているというのです。これを優性の法則といいます。しかしこのようにして出来た雑種をもう一度おたがいに交配させると、今度は優性と劣性とが分離して現れ、優性のもの3に対して劣牲のもの1という割合で第二代目の雑種が生ずるのです。これはメンデルの分離の法則といわれてい... | メンデルの独立結合の法則を教えてください。 | 個々の性質はそれぞれ独立のものであって、それらが分離して再び他のものと結合するということが、これで示されたので、その意味でこれを再結合の法則、または独立結合の法則というのです。
|
JCRRAG_012264 | 歴史 | キュリー夫人の故国はポーランドで、一八六七年の十一月七日にその首都ワルソーで生まれました。その名をマリー・スクロドフスカと称しましたが、父はギムナジウム(中等学校)の教師で、物理学と数学とを教えており、母も以前に女学校を立てたことのある人であったというのですから、学問に縁故の深い家柄であったわけです。そしてこれがすでに後にマリーを学問の研究に携わらせる何かの動機となっていたのかも知れません。しかし母はマリーが五歳に達したときに不幸にして亡くなってしまったので、その後はもっぱら父の手で育てられました。ところで父はギムナジウムの教師ではあったのですが、その家計は決して豊かではなかったのに、おまけに非常にまじめな人であったので、学校に物理... | マリーの家が家計に困ったのはなぜですか。 | 父はギムナジウムの教師ではあったのですが、その家計は決して豊かではなかったのに、おまけに非常にまじめな人であったので、学校に物理学の実験器械などが十分に備えてなかったのを遺憾に感じ、予算も少なかったので、自費でそれらを買いととのえたものですから、授業の方はいくらかうまく出来たものの、家計はひどく困ったということです。 |
JCRRAG_012265 | 歴史 | キュリー夫人の故国はポーランドで、一八六七年の十一月七日にその首都ワルソーで生まれました。その名をマリー・スクロドフスカと称しましたが、父はギムナジウム(中等学校)の教師で、物理学と数学とを教えており、母も以前に女学校を立てたことのある人であったというのですから、学問に縁故の深い家柄であったわけです。そしてこれがすでに後にマリーを学問の研究に携わらせる何かの動機となっていたのかも知れません。しかし母はマリーが五歳に達したときに不幸にして亡くなってしまったので、その後はもっぱら父の手で育てられました。ところで父はギムナジウムの教師ではあったのですが、その家計は決して豊かではなかったのに、おまけに非常にまじめな人であったので、学校に物理... | マリーが学問に専念しようとした理由はなんですか。 | 学問の上で成功することも祖国に尽くす心の上に変わりはないのだということをひたすらに感じ、その後は科学研究に身を任せようと固く決心したのでした。 |
JCRRAG_012266 | 歴史 | パドーヴァ時代にガリレイは、コペルニクスの書物を読んで、その学説の正しいことを感じ、自分でもこれを研究してみたいと望んだのでした。コペルニクスという人はポーランドの国の僧侶であったのですが、イタリヤへ来て学問を修め、その後帰国してから、有名な地動説をとなえ、その書物は一五四三年に彼の没する直前に出版されて、それから世に広まったのでしたが、その頃の宗教家のはげしい非難にあって、ほとんど禁止の運命に置かれていたのでした。宗教家の反対というのはキリスト教の聖書に、我々人間は神にかたどってつくられたものであり、そしてこの人間の住んでいる地球は宇宙の中心にあって、あらゆる天体はそれをめぐっているということが記されているのに、コペルニクスの地動... | ガリレオ・ガリレイが地動説を支持したのはなぜですか。 | ガリレイは、この宇宙の正しい事実を言いあらわす科学こそ神の栄光と偉大さをもの語るものであって、これを禁圧するのは、それこそかえって神の意志に背くものであるという強固な信条のもとに、むしろコペルニクスの説を肯定しようとしたのでした。 |
JCRRAG_012267 | 歴史 | 一六一〇年に、ガリレイがピザに帰ってからは、その地がローマ法王の直接の管下に属するだけに、ますます宗教家たちの反対が強くなり、異端説を主張するのをひどく責めるようになりました。その間にガリレイは、その誤解を説き、また科学と宗教との異なることを示そうとしてあらゆる努力を費やしましたが、それは到底当時の人々の耳には入らなかったので、また中にはガリレイの名声の高いのを嫉む人々の策謀などもそれに混ざって来て、遂には大僧正の命令で地動説をとなえてはならないということを警告されました。これは一六一六年のことでしたが、その後もしかしガリレイは自分の信念だけは変えませんでした。しかしただ当分のうちはできるだけ事を荒立てないように黙って過ごしましたが... | ガリレイは、一六二九年になって問答の形式で普通に「天文対話」と呼ばれている書物を著し何年にこれを出版しましたか。 | ガリレイは、一六二九年になって問答の形式で普通に「天文対話」と呼ばれている書物を著し一六三二年にこれを出版しました |
JCRRAG_012268 | 歴史 | ボイルはしかしそういう古い考え方に囚われないで、実際事実の上でいろいろな物質を分解してみて、もうこれ以上分解されないと見られるものを元素とみなそうとしたのでした。つまり元素は、人間の考えの上で定められるものではなく、自然の事実を調べて見つけ出してゆかなくてはならないということを、はっきりと言い現したのでした。もちろんボイルの時代にはたくさんの元素が知られているわけではなかったのですが、それでも錬金術者がいかに苦心して変えようとしても変えられなかったいろいろな金属、すなわち金、銀、銅、鉄、鉛などはどれもボイルの言った意味での元素であることが、だんだんにわかって来たのでした。
ボイルのもう一つの大切な仕事としては、混合物と化合物との差... | ロバートボイルはボイルの法則以外に発見したものはありますか。 | ボイルのもう一つの大切な仕事としては、混合物と化合物との差別を初めてはっきりさせたことです。 |
JCRRAG_012269 | 歴史 | 光秀は、十三日午前中、全軍を円明寺川畔に展開した。秀吉軍が展開するのは、それからずっと遅れた。
なぜ光秀が展開を完了したのにもかかわらず、まだ部隊の準備が整っていない秀吉軍を打たなかったか、それが山崎の戦いの一つの敗因であると戦術家は批評している。
戦が開始する前、高山右近の家来の甘利八郎太夫という男が、腰掛けに座って戦いの準備が整うのを待っている右近の前に出て、
「私はいまどうしていいか分からない事があるから、御判断をお願いしたい。お殿様は、私を無能な人間として、給与など少しも下さっていない。その私が、ここで手柄を取ってしまうと、殿様が物事を見通す見識がないと思われることになって不忠になる。といって、臆病な振る舞いをすると、父祖... | 山崎の戦いで静観していた筒井順慶が明智光秀を裏切ったのはなぜですか。 | 筒井順慶は、戦争を見物していて、勝った方へ味方しようと考えていたのである。 |
JCRRAG_012270 | 歴史 | どこの国でも、その国の全体の有様を知るのには、地図がつくられていなければなりませんが、正しい地図をつくるのには、すべての場所に出かけて行って土地の測量を正確に行わなければならないのは、言うまでもありません。ところが、我が国においてそのような正確な土地の測量は、昔はほとんど行われていなかったので、従って正しい地図もまるでなかったのでした。それというのも、このような測量をするのにはいろいろな精密な器械も必要でありましたし、また土地測量の基準として星の位置を正しく観測することも必要であったからです。そこで、このような仕事が、我が国では最初に誰によってなされたのかといいますと、それはここにお話ししようとする伊能忠敬によるのでありまして、しか... | 伊能忠敬が地図を作るまで日本に正確な地図がなかったのはなぜですか。 | 正しい地図をつくるのには、すべての場所に出かけて行って土地の測量を正確に行わなければならないのは、言うまでもありません。ところが、我が国においてそのような正確な土地の測量は、昔はほとんど行われていなかったので、従って正しい地図もまるでなかったのでした。 |
JCRRAG_012271 | 歴史 | どこの国でも、その国の全体の有様を知るのには、地図がつくられていなければなりませんが、正しい地図をつくるのには、すべての場所に出かけて行って土地の測量を正確に行わなければならないのは、言うまでもありません。ところが、我が国においてそのような正確な土地の測量は、昔はほとんど行われていなかったので、従って正しい地図もまるでなかったのでした。それというのも、このような測量をするのにはいろいろな精密な器械も必要でありましたし、また土地測量の基準として星の位置を正しく観測することも必要であったからです。そこで、このような仕事が、我が国では最初に誰によってなされたのかといいますと、それはここにお話ししようとする伊能忠敬によるのでありまして、しか... | なぜ日本は正確な地図が必要になってきたのですか。 | ちょうどこの時代にはわが国の北辺がようやく騒がしくなり始め、それに林子平の『海国兵談』なども出て、国防の問題もいろいろ議論させられるようになっていましたので、それにつけても正確な地図が必要とされた。 |
JCRRAG_012272 | 歴史 | どこの国でも、その国の全体の有様を知るのには、地図がつくられていなければなりませんが、正しい地図をつくるのには、すべての場所に出かけて行って土地の測量を正確に行わなければならないのは、言うまでもありません。ところが、我が国においてそのような正確な土地の測量は、昔はほとんど行われていなかったので、従って正しい地図もまるでなかったのでした。それというのも、このような測量をするのにはいろいろな精密な器械も必要でありましたし、また土地測量の基準として星の位置を正しく観測することも必要であったからです。そこで、このような仕事が、我が国では最初に誰によってなされたのかといいますと、それはここにお話ししようとする伊能忠敬によるのでありまして、しか... | 伊能忠敬が日本地図を完成させるまでに何年かかりましたか。 | 全国の地図を完成するのにも、二十年に近い歳月を費さなくてはならなかったのでした。 |
JCRRAG_012273 | 歴史 | 伊能忠敬は、幼名を三治郎、後に佐忠太といいましたが、成人して通称三郎右衞門と称し、字は子齊、東河と号し、晩年には勘解由とも称しました。上総国かずさのくに山武郡小関村で延享二年一月十一日に神保利左衞門貞恒の第三男として生まれたのでした。もっともこの時に父は小関村の小關家を継いでいたのでしたが、忠敬が七歳のときに妻の死歿に遭い神保家に戻りましたので、それでも、忠敬は幼かったのでその儘まま小關家に留まり、十一歳になってようやく父の許に帰ったということです。ですから、忠敬の幼時は言わば不遇の境地に置かれていたのでしたが、その頃から学問を好んでいたということは、後に自分で記しているところによっても確かであったのでした。しかしそれでもなかなかそ... | 伊能忠敬は名前を忠敬にしたきっかけはなんですか。 | 十八歳になった際には、下総佐原町の伊能家に婿養子に遣られ、その時忠敬と名のることとなったのでした。 |
JCRRAG_012274 | 歴史 | 伊能忠敬は、幼名を三治郎、後に佐忠太といいましたが、成人して通称三郎右衞門と称し、字は子齊、東河と号し、晩年には勘解由とも称しました。上総国かずさのくに山武郡小関村で延享二年一月十一日に神保利左衞門貞恒の第三男として生まれたのでした。もっともこの時に父は小関村の小關家を継いでいたのでしたが、忠敬が七歳のときに妻の死歿に遭い神保家に戻りましたので、それでも、忠敬は幼かったのでその儘まま小關家に留まり、十一歳になってようやく父の許に帰ったということです。ですから、忠敬の幼時は言わば不遇の境地に置かれていたのでしたが、その頃から学問を好んでいたということは、後に自分で記しているところによっても確かであったのでした。しかしそれでもなかなかそ... | 伊能忠敬は伊能家の家運をどうやって回復しましたか。 | 三十年の長い間、この事に熱心に従い、産業の発展に努めたのでした。この産業という中には、米穀を豊作の土池から買って来て、それを他に売りさばくことや、また醸造や薪問屋の営業などもあったということです。 |
JCRRAG_012275 | 歴史 | 忠敬が隠居したのは寛政六年のことでありましたが、翌七年の五月には江戸に出て、深川の黒江町に居住し、それから学問を修めようとしたのでした。ところが、ちょうどこの時に彼は幸運にめぐまれました。それはこの年の三月に幕府が暦法改正の仕事を始めるために大阪から暦学天文の大家として知られている高橋作左衞門至時、ならびに間五郎兵衞重富を江戸に呼びよせたことで、高橋は四月に、間は六月に江戸に到着したからです。この高橋と間とは共に大阪で名高かった麻田剛立の門弟であって、既に十分の実力をそなえていたのでしたが、もしそのまま大阪に居住していたとしたならば、忠敬もたやすくその教えを乞うことはできなかったに違いないのでした。ところが、この両人が忠敬の江戸に出... | 「伊能東河先生量地伝習録」にはどのようなことが記述されていますか。 | 忠敬が作った道具には、ものさし(尺度)、間棹、間縄、量程車、羅鍼、方位盤、象限儀、時計、測量定分儀、圭表儀、望遠鏡などがありました。これらの器械のことについては、後に忠敬の門弟の渡邊愼という人が書きのこした「伊能東河先生量地伝習録」という書物にかなり詳しく記されている。 |
JCRRAG_012276 | 歴史 | 忠敬が隠居したのは寛政六年のことでありましたが、翌七年の五月には江戸に出て、深川の黒江町に居住し、それから学問を修めようとしたのでした。ところが、ちょうどこの時に彼は幸運にめぐまれました。それはこの年の三月に幕府が暦法改正の仕事を始めるために大阪から暦学天文の大家として知られている高橋作左衞門至時、ならびに間五郎兵衞重富を江戸に呼びよせたことで、高橋は四月に、間は六月に江戸に到着したからです。この高橋と間とは共に大阪で名高かった麻田剛立の門弟であって、既に十分の実力をそなえていたのでしたが、もしそのまま大阪に居住していたとしたならば、忠敬もたやすくその教えを乞うことはできなかったに違いないのでした。ところが、この両人が忠敬の江戸に出... | 伊能忠敬の測量は正確でしたか。 | 忠敬はこの物さしを使って後に地球の緯度の一度が二十八里二分に当たるという結果を出しているのですが、これは現在の測定に比べて見ても僅かに千分の二ほどしか違っていないということで、忠敬の測量がその時代としていかに精密なものであったかが、この一事でも知られるのであります。 |
JCRRAG_012277 | 歴史 | 忠敬が隠居したのは寛政六年のことでありましたが、翌七年の五月には江戸に出て、深川の黒江町に居住し、それから学問を修めようとしたのでした。ところが、ちょうどこの時に彼は幸運にめぐまれました。それはこの年の三月に幕府が暦法改正の仕事を始めるために大阪から暦学天文の大家として知られている高橋作左衞門至時、ならびに間五郎兵衞重富を江戸に呼びよせたことで、高橋は四月に、間は六月に江戸に到着したからです。この高橋と間とは共に大阪で名高かった麻田剛立の門弟であって、既に十分の実力をそなえていたのでしたが、もしそのまま大阪に居住していたとしたならば、忠敬もたやすくその教えを乞うことはできなかったに違いないのでした。ところが、この両人が忠敬の江戸に出... | 伊能忠敬の師匠である高橋作左衛門はどういう人でしたか。 | 高橋作左衛門はその頃暦学では他に並ぶものがないといわれたほどの人で、寛政丁巳暦と称せられたのは彼と間重富との方寸によって成り立ったものであったのでしたが、それだけに門弟に対してもなかなかに厳しく教える人間だと言われていた。 |
JCRRAG_012278 | 歴史 | 忠敬が隠居したのは寛政六年のことでありましたが、翌七年の五月には江戸に出て、深川の黒江町に居住し、それから学問を修めようとしたのでした。ところが、ちょうどこの時に彼は幸運にめぐまれました。それはこの年の三月に幕府が暦法改正の仕事を始めるために大阪から暦学天文の大家として知られている高橋作左衞門至時、ならびに間五郎兵衞重富を江戸に呼びよせたことで、高橋は四月に、間は六月に江戸に到着したからです。この高橋と間とは共に大阪で名高かった麻田剛立の門弟であって、既に十分の実力をそなえていたのでしたが、もしそのまま大阪に居住していたとしたならば、忠敬もたやすくその教えを乞うことはできなかったに違いないのでした。ところが、この両人が忠敬の江戸に出... | 伊能忠敬は高橋作左衛門のもとで何を学びましたか。 | 高橋作左衞門のもとを訪ねて、鄭重に入門を請いました。そして測量、地理、暦術を熱心に学びました。 |
JCRRAG_012279 | 歴史 | 忠敬が隠居したのは寛政六年のことでありましたが、翌七年の五月には江戸に出て、深川の黒江町に居住し、それから学問を修めようとしたのでした。ところが、ちょうどこの時に彼は幸運にめぐまれました。それはこの年の三月に幕府が暦法改正の仕事を始めるために大阪から暦学天文の大家として知られている高橋作左衞門至時、ならびに間五郎兵衞重富を江戸に呼びよせたことで、高橋は四月に、間は六月に江戸に到着したからです。この高橋と間とは共に大阪で名高かった麻田剛立の門弟であって、既に十分の実力をそなえていたのでしたが、もしそのまま大阪に居住していたとしたならば、忠敬もたやすくその教えを乞うことはできなかったに違いないのでした。ところが、この両人が忠敬の江戸に出... | 伊能忠敬はなぜ折衷尺を開発しましたか。 | 比較的広く行われていた物さしとしては、享保尺というのと、又四郎尺というのとありましたが、それらも幾らか長さのちがいがありました。そこで忠敬はこの二つの物さしの平均をとって新しい尺度を定め、これを折衷尺と名づけ、これを測量の土台にしたのでした。 |
JCRRAG_012280 | 歴史 | 前にも述べたように、ちょうどこの頃我が国の沿海にロシアの艦船などが出没し、ようやく騒がしくなって来ましたので、寛政十二年になると、幕府が忠敬に命じてまず蝦夷の測量を行わせることになりました。この頃の蝦夷といえば、まだまるで拓けてもいなかったので、その地を旅するだけでもなかなかの難事であったのでしたが、忠敬は既に五十六歳にもなる身でほとんど一年間を費してその土地測量を行い、その年の十二月に蝦夷の地図をつくり上げたということです。この蝦夷の地で、忠敬は間宮倫宗に出会い、それから倫宗と親しく交友したのでした。
蝦夷の測量を終わってから、忠敬は更に日本全国の測量を志し、それから実に十八年の長い間到るところに旅してこの大きな仕事を果たしたと... | 伊能忠敬が作った日本輿地全図の縮尺は一つだけですか。 | 文化六年に大体において日本輿地全図をつくり上げました。この中には全国の大図、中図、小図の三種類のものがありましたが、それらはそれぞれ三万六千分の一、二十一万六千分の一、四十三万二千分の一の大きさに相当するものです。 |
JCRRAG_012281 | 歴史 | 前にも述べたように、ちょうどこの頃我が国の沿海にロシアの艦船などが出没し、ようやく騒がしくなって来ましたので、寛政十二年になると、幕府が忠敬に命じてまず蝦夷の測量を行わせることになりました。この頃の蝦夷といえば、まだまるで拓けてもいなかったので、その地を旅するだけでもなかなかの難事であったのでしたが、忠敬は既に五十六歳にもなる身でほとんど一年間を費してその土地測量を行い、その年の十二月に蝦夷の地図をつくり上げたということです。この蝦夷の地で、忠敬は間宮倫宗に出会い、それから倫宗と親しく交友したのでした。
蝦夷の測量を終わってから、忠敬は更に日本全国の測量を志し、それから実に十八年の長い間到るところに旅してこの大きな仕事を果たしたと... | 伊能忠敬が高橋作左衞門の墓の近くに埋葬されたのはなぜか。 | 自分がこのように日本全国を測量するという大きな仕事をなし遂げることのできたのも、全く高橋作左衞門師のおかげであったのであるから、その恩を深く感謝するためにせめてその墓側に葬ってくれといったとのことです。 |
JCRRAG_012282 | 歴史 | 源内が最初本草学を修めてそれに詳しかったことは、すでに記した通りですが、江戸に来て田村藍水に教えをうけてからは一層これに熱心になり、田村藍水や松田元長などという人たちと相謀って、宝暦七年から十二年に至る間に五回にわたって、東都薬品会というのを催しました。そしていつも薬物を備えておかなければ病疾を癒やすことはできないというので、その間に広く諸国を巡って、多くの種類の薬草を集めたのでした。そして西洋からの薬品だけをあてにしていたのでは、商船が来なかった際には間に合わなくなるので、そんなことではいけないとも言っているのですが、そういう識見はその頃源内にして始めてもち得たのであると思われるのです。
また明和二年には、源内は武蔵国秩父の中津... | 平賀源内が平線儀を発明したのはなぜですか。 | 平線儀は、その頃田畑用水掛井手や溜池などを築くときに水盛違いで仕損じるのを防ぐためでした。 |
JCRRAG_012283 | 歴史 | 源内が最初本草学を修めてそれに詳しかったことは、すでに記した通りですが、江戸に来て田村藍水に教えをうけてからは一層これに熱心になり、田村藍水や松田元長などという人たちと相謀って、宝暦七年から十二年に至る間に五回にわたって、東都薬品会というのを催しました。そしていつも薬物を備えておかなければ病疾を癒やすことはできないというので、その間に広く諸国を巡って、多くの種類の薬草を集めたのでした。そして西洋からの薬品だけをあてにしていたのでは、商船が来なかった際には間に合わなくなるので、そんなことではいけないとも言っているのですが、そういう識見はその頃源内にして始めてもち得たのであると思われるのです。
また明和二年には、源内は武蔵国秩父の中津... | 平賀源内が発明した火浣布はなぜ香敷に使われたのですか。 | 火浣布というのは、秩父の奥で見つけ出した石綿をつかって、それで織った布なのですが、これで唐米袋と言われているような袋をつくると、それは火に焼けないばかりでなく、その布のよごれは火に浣われるようにとれてしまうというので、火浣布と名づけたのでした。それを敷いて香をたくのに最も都合がよいというので、香敷に多く使われたということです。 |
JCRRAG_012284 | 歴史 | 源内が最初本草学を修めてそれに詳しかったことは、すでに記した通りですが、江戸に来て田村藍水に教えをうけてからは一層これに熱心になり、田村藍水や松田元長などという人たちと相謀って、宝暦七年から十二年に至る間に五回にわたって、東都薬品会というのを催しました。そしていつも薬物を備えておかなければ病疾を癒やすことはできないというので、その間に広く諸国を巡って、多くの種類の薬草を集めたのでした。そして西洋からの薬品だけをあてにしていたのでは、商船が来なかった際には間に合わなくなるので、そんなことではいけないとも言っているのですが、そういう識見はその頃源内にして始めてもち得たのであると思われるのです。
また明和二年には、源内は武蔵国秩父の中津... | 平賀源内は発明したエレキテルでなにをしましたか。 | 源内はこのエレキテルをつかって、紙細工の人形を動かしたり、火花をとばしたりした。 |
JCRRAG_012285 | 歴史 | 源内の行った仕事としては、西洋の油絵の描き方を会得して、それを人々に伝えたり、また田沼侯のためにオランダ語の翻訳に従事したりしたことです。その著書としては、本草に関するものがたくさんにある外に、農作物、物産に関するものもあり、火浣布、陶器、寒熱昇降器などの説明もあり、また他面には多くの滑稽本、洒落本、及び浄瑠璃の作品があるので、これ等は実は源内があらゆる方面においてすぐれた才能をもっていたことを示すものであります。しかしそれにも拘らず晩年には甚だ不遇であったので、殊に安永八年には図らずも罪を得て十一月二十日に牢獄につながれることとなり、十二月十八日に獄内で死んだということです。この罪を得た原因についてもいろいろな説があって、どれが本... | 平賀源内の墓の碑文に杉田玄白が記した文はなにか。 | 源内の墓は江戸、浅草橋場町の総泉寺と、郷里の志度浦の自性院にあるのですが、杉田玄白がその碑文に、「非常の人あり、非常の事を好む。ああ非常の人、遂に非常に死す」と記しているそうです。 |
JCRRAG_012286 | 歴史 | ニュートン祭になぜ林檎を飾るかといえば、それはニュートンが林檎の実が落ちるのを見て万有引力を発見したという有名な話があるからです。この話の由来について少しだけ説明してみますと、次の通りです。
ニュートンの名はアイザックと言いますが、その生まれた故郷は、イギリスの中部にあるリンコルン伯爵領地のなかのウールスソープという小さな村でした。その村で小学校を卒業してから隣町の中学校に入ったところが、家庭の事情で一年ばかり経って家に呼び戻され、農業に従事することになりました。それというのも父はアイザックの生まれる前に病気で死んでしまい、母親は一旦他家に再嫁したのに、そこでまた夫と死別してニュートンの生家に帰って来たからでした。しかしアイザック... | ニュートンはペストの影響を受けましたか。 | ヨーロッパではペスト病が激しく流行し、諸処を襲っては恐ろしく多数の死者を出すという有様であったのです。ちょうど翌年の夏にはイギリスがその流行に襲われたので、ケンブリッジ大学もしばらくの間閉鎖して、学生はみんな郷里へかえることになりました。それでニュートンも故郷に戻った。 |
JCRRAG_012287 | 歴史 | ニュートン祭になぜ林檎を飾るかといえば、それはニュートンが林檎の実が落ちるのを見て万有引力を発見したという有名な話があるからです。この話の由来について少しだけ説明してみますと、次の通りです。
ニュートンの名はアイザックと言いますが、その生まれた故郷は、イギリスの中部にあるリンコルン伯爵領地のなかのウールスソープという小さな村でした。その村で小学校を卒業してから隣町の中学校に入ったところが、家庭の事情で一年ばかり経って家に呼び戻され、農業に従事することになりました。それというのも父はアイザックの生まれる前に病気で死んでしまい、母親は一旦他家に再嫁したのに、そこでまた夫と死別してニュートンの生家に帰って来たからでした。しかしアイザック... | アイザックは中学校を止めて農業に従事することになったが、なぜ中学校に戻ることができたのか。 | アイザックがいかにも学問好きなので、そのまま農業をさせておくのも惜しいと人々に忠告されて、ともかく中学校を続けさせることになった。 |
JCRRAG_012288 | 歴史 | ちょうど翌年の夏にはイギリスがその流行に襲われたので、ケンブリッジ大学もしばらくの間閉鎖して、学生はみんな郷里へかえることになりました。それでニュートンも故郷に戻ったのですが、その間にも自分の好きな研究は少しも怠りませんでした。そのときの研究というのが、ちょうど星の運動であったのです。つまり星の運動はどんな力に支配されているのかという問題を深く考えていたのですが、ある日庭園を散歩してみると、ふと林檎の実が枝からぼたりと落ちたのを見て、それで万有引力ということに気がついたというのです。
この話は、ニュートンが死んでから十年程後に出版されたヴォルテールという人の著書のなかに、ニュートンの姪から聞いたものとして記されているので、その後伝... | ニュートンは林檎が落ちるのを見て万有引力を発見したという話は誰が書きましたか。 | ある日庭園を散歩してみると、ふと林檎の実が枝からぼたりと落ちたのを見て、それで万有引力ということに気がついたというのです。この話は、ニュートンが死んでから十年程後に出版されたヴォルテールという人の著書のなかに、ニュートンの姪から聞いたものとして記されている。 |
JCRRAG_012289 | 歴史 | ちょうど翌年の夏にはイギリスがその流行に襲われたので、ケンブリッジ大学もしばらくの間閉鎖して、学生はみんな郷里へかえることになりました。それでニュートンも故郷に戻ったのですが、その間にも自分の好きな研究は少しも怠りませんでした。そのときの研究というのが、ちょうど星の運動であったのです。つまり星の運動はどんな力に支配されているのかという問題を深く考えていたのですが、ある日庭園を散歩してみると、ふと林檎の実が枝からぼたりと落ちたのを見て、それで万有引力ということに気がついたというのです。
この話は、ニュートンが死んでから十年程後に出版されたヴォルテールという人の著書のなかに、ニュートンの姪から聞いたものとして記されているので、その後伝... | なぜニュートンは月が地面に落ちないと疑問に思ったのか。 | 林檎が落ちるならば、月もまた落ちなくてはならない。それなら月は果たしてどんな速さで落ちているかを計算して見よう。これがニュートンの研究の出発点でありました。 |
JCRRAG_012290 | 歴史 | イギリスのニュートンといえば、科学の先祖のように尊ばれているのは、多分皆さんもご存じでしょう。毎年十二月の二十五日になると、大学の物理学の教室では、古い先輩の方々から学生までが集まって、ニュートン祭というものを行います。ニュートンの肖像を正面に飾って、赤い林檎の実をその前に盛って、それから先輩の思出話や、大学の先生方のおもしろい逸話を漫画に描いたのを写し出したり、賑やかにその夜を興じ過ごすのが例になっています。そしてニュートンへの思慕を通じて、みんな科学を知る喜びをしっかりと胸に抱くのです。
十二月の二十五日は、ニュートンの誕生日に当たるので、その生まれたのは一六四二年のことですから、今からはもう三〇〇年前になります。そんなに昔の... | ニュートンはウエストミンスター寺院に葬られましたか。 | イギリスでは国家に功労のあった偉い人達をロンドンのウエストミンスター寺院に葬ることになっているのですが、その光栄を荷なった人々の中には、政治家や軍人ばかりでなく、文学者や科学者などもたくさんにあります。これは学問に重きを置く上から当然のことでありますが、科学者のなかでニュートンの墓石がひと際目立って並んでいることはいうまでもありません。 |
JCRRAG_012291 | 歴史 | 科学の上の学説や理論のうちで、今日までに広く世間一般の問題にされたものはいろいろありますが、そのなかである方面から強い反対を受け、それをとなえる学者に社会的な迫害を与えるほどになったものとして、古くはコペルニクスの地動説があり、近代になってはダーウィンの生物進化論であることは、多分皆さんも知られていることでありましょう。ダーウィンの生物進化論を反対する主要な原因は宗教的な信仰によるのでありまして、ことに西洋では古くからキリスト教の信仰が深くふだんの生活のなかにまでしみ込んでいるので、その聖書のなかに記されていることをそのまま真実として信じることになるのでした。本当に考えるならば、聖書の字句は、まだ発達しなかったごく古い時代の人達に教... | ダーウィンの生物進化論はなぜ反対されたのですか。 | ダーウィンの生物進化論を反対する主要な原因は宗教的な信仰によるのでありまして、ことに西洋では古くからキリスト教の信仰が深くふだんの生活のなかにまでしみ込んでいるので、その聖書のなかに記されていることをそのまま真実として信じることになるのでした。 |
JCRRAG_012292 | 歴史 | 科学の上の学説や理論のうちで、今日までに広く世間一般の問題にされたものはいろいろありますが、そのなかである方面から強い反対を受け、それをとなえる学者に社会的な迫害を与えるほどになったものとして、古くはコペルニクスの地動説があり、近代になってはダーウィンの生物進化論であることは、多分皆さんも知られていることでありましょう。ダーウィンの生物進化論を反対する主要な原因は宗教的な信仰によるのでありまして、ことに西洋では古くからキリスト教の信仰が深くふだんの生活のなかにまでしみ込んでいるので、その聖書のなかに記されていることをそのまま真実として信じることになるのでした。本当に考えるならば、聖書の字句は、まだ発達しなかったごく古い時代の人達に教... | 宗教や思想と化学は関係ありますか。 | 科学の学説や理論は、自然のいろいろな事実を理解してゆくために、ぜひとも必要なのであって、それらはもちろん現在のままで完全であるとは限りませんけれども、だんだんにそれらを完全に導いてゆくことが、科学の進歩を持ち来たすものであるということを、十分によく悟らなくてはなりません。宗教や思想などはいうまでもなくそれとは無関係のものであるべきはずなのです。 |
JCRRAG_012293 | 歴史 | 生物の種類を分けてゆく研究を最初に行なった人は、スウェーデンの名だかい学者カル・フォン・リンネで、まず植物を分類した著書を一七三五年に公刊し、その後動物の分類をも行ったのでしたが、その際に人間を動物のなかの霊長類の一つの種類となし、高等な猿類と並べたのでした。それでこの事がすでにその頃の宗教家の非難の的となり、これは人間が人間自身を侮辱し、かつ神の威光を汚すけしからぬことだとされました。
それでもリンネは生物を科学的に分類してゆけば、そうならなくてはならないというように信じていたのでした。もっとも最初の頃には、生物の種類のたくさんに存在することに対しては、これらは神が創造したものであって、それがいつまでも不変に保たれていると考え... | カル・フォン・リンネの研究は、なぜ非難の的になったのですか。 | 人間を動物のなかの霊長類の一つの種類となし、高等な猿類と並べたのでした。それでこの事がすでにその頃の宗教家の非難の的となり、これは人間が人間自身を侮辱し、かつ神の威光を汚すけしからぬことだとされました。 |
JCRRAG_012294 | 歴史 | 生物の種類を分けてゆく研究を最初に行なった人は、スウェーデンの名だかい学者カル・フォン・リンネで、まず植物を分類した著書を一七三五年に公刊し、その後動物の分類をも行ったのでしたが、その際に人間を動物のなかの霊長類の一つの種類となし、高等な猿類と並べたのでした。それでこの事がすでにその頃の宗教家の非難の的となり、これは人間が人間自身を侮辱し、かつ神の威光を汚すけしからぬことだとされました。
それでもリンネは生物を科学的に分類してゆけば、そうならなくてはならないというように信じていたのでした。もっとも最初の頃には、生物の種類のたくさんに存在することに対しては、これらは神が創造したものであって、それがいつまでも不変に保たれていると考えた... | 詩人のゲーテが生物進化論を支持したのはなぜですか。 | ゲーテというのは、詩人、小説家として誰も知らないものはないほど名だかい人でありますが、同時に自然科学者としてもいろいろな研究を行ったので、なかでも生物に対しては、その形がそれぞれちがっていても、根源は一つであるということをいろいろな事実によって証明しようとしたのでした。 |
JCRRAG_012295 | 歴史 | チャールズ・ダーウィンは一八〇九年にイギリスのシュルスベリーというところで生まれました。ダーウィン家は先祖から裕福な農民であって、十八世紀時代には一層恵まれて来たのでしたが、前にも記した祖父のエラスマスは才気独創に富んだ人で、博物学者であると共に、哲学や詩を才能を発揮し、大いに社会的にも活躍していました。その息子のロバートは医者となりましたが、同時に王立協会の会員にも選ばれて、同じく世間の信用を得ていました。チャールズはその次男に当たるのです。父はチャールズにも医学を修めさせようとして、最初にはエディンバラ大学に入学させたのでしたが、人体解剖などを嫌って、それで医学をさほど好まないようになり、その後ケンブリッジ大学に転じてからは、む... | ダーウィンは世界一周をしてどうなりましたか。 | ダーウィンにとっては諸処でめずらしい動物や植物を見るのがこの上もない楽しみであったので、それらが後に生物進化の考えをまとめるのに大いに役立ったのでした。 |
JCRRAG_012296 | 歴史 | パストゥールの学問上の仕事は非常にたくさんあって、ここでそれを一々こまかくお話ししているわけにはゆきませんが、ごく大体をいえば微生物に関する研究と、それで起される病気からの免疫の方法を明らかにしたことであります。
まず微生物が自然に発生するものではないということに対しては、たとえ空気があっても、それが完全にきれいであれば微生物が決して発生しないということを、実験で示しました。
普通の空気のなかにはどこにでも腐敗をおこさせる細菌がいるのですが、場所によってはそれの少ない処もあるので、人家から離れたへんぴな場所や高い山の上ではそうであることを実験で示しました。
そして高さ三千メートルもあるモンブランの山の頂きでは腐敗がほとんど起らないこ... | パストゥールが葡萄酒の発酵菌を取り除く方法を発見してどうなりましたか。 | 葡萄酒を保存するのに止むを得ずアルコールを混ぜていたのでしたが、それでは値段も高くなり、また健康にも害があったのです。ところがパストゥールの方法で醗酵菌を除いてしまえば、ごく簡単に保存が出来るので、醸造家にはこの上もなく都合よくなり、以来この方法はパストゥーリゼーションと呼ばれて広く行われるようになりました。 |
JCRRAG_012297 | 歴史 | チャールズ・ダーウィンは一八〇九年にイギリスのシュルスベリーというところで生まれました。ダーウィン家は先祖から裕福な農民であって、十八世紀時代には一層恵まれて来たのでしたが、前にも記した祖父のエラスマスは才気独創に富んだ人で、博物学者であると共に、哲学や詩を才能を発揮し、大いに社会的にも活躍していました。その息子のロバートは医者となりましたが、同時に王立協会の会員にも選ばれて、同じく世間の信用を得ていました。チャールズはその次男に当たるのです。父はチャールズにも医学を修めさせようとして、最初にはエディンバラ大学に入学させたのでしたが、人体解剖などを嫌って、それで医学をさほど好まないようになり、その後ケンブリッジ大学に転じてからは、む... | ダーウィンの提唱した「自然淘汰」とはなんですか。 | 自然淘汰というのは、いろいろな生物が生存してゆくために生物はお互いに競争し、また自然にも対抗してゆかなくてはならないのですが、そのうちで生存に都合のいいものが残り、生存をつづけるだけの力のないものは滅びて無くなってしまうということを意味するのです。 |
JCRRAG_012298 | 歴史 | チャールズ・ダーウィンは一八〇九年にイギリスのシュルスベリーというところで生まれました。ダーウィン家は先祖から裕福な農民であって、十八世紀時代には一層恵まれて来たのでしたが、前にも記した祖父のエラスマスは才気独創に富んだ人で、博物学者であると共に、哲学や詩を才能を発揮し、大いに社会的にも活躍していました。その息子のロバートは医者となりましたが、同時に王立協会の会員にも選ばれて、同じく世間の信用を得ていました。チャールズはその次男に当たるのです。父はチャールズにも医学を修めさせようとして、最初にはエディンバラ大学に入学させたのでしたが、人体解剖などを嫌って、それで医学をさほど好まないようになり、その後ケンブリッジ大学に転じてからは、む... | ダーウィンはなぜ医者にならなかったのか。 | 父はチャールズにも医学を修めさせようとして、最初にはエディンバラ大学に入学させたのでしたが、人体解剖などを嫌って、それで医学をさほど好まないようになり、その後ケンブリッジ大学に転じてからは、むしろ植物学や地質学や昆虫学に興味をよせるようになったということです。 |
JCRRAG_012299 | 歴史 | チャールズ・ダーウィンは一八〇九年にイギリスのシュルスベリーというところで生まれました。ダーウィン家は先祖から裕福な農民であって、十八世紀時代には一層恵まれて来たのでしたが、前にも記した祖父のエラスマスは才気独創に富んだ人で、博物学者であると共に、哲学や詩を才能を発揮し、大いに社会的にも活躍していました。その息子のロバートは医者となりましたが、同時に王立協会の会員にも選ばれて、同じく世間の信用を得ていました。チャールズはその次男に当たるのです。父はチャールズにも医学を修めさせようとして、最初にはエディンバラ大学に入学させたのでしたが、人体解剖などを嫌って、それで医学をさほど好まないようになり、その後ケンブリッジ大学に転じてからは、む... | ダーウィンの研究と同じ考えのアルフレッド・ウォーレスの論文が学会の雑誌に二人同時に載ることになったのはなぜか。 | 学会の幹事たちは、ダーウィンもよく知っていて、その研究についても以前から話し合ってダーウィンも同じ考えをもっていたことを心得ていましたから、この機会にその研究も発表させた方がよいとして、一つの論文を書かせてウォーレスのと同時に学会の雑誌に載せることにしました。 |
JCRRAG_012300 | 歴史 | 自然科学のいろいろな部門がすべてそうであったように、医学もまた我が国でだんだんに発達して来たのは明治以後のことでありますが、しかしそうなるまでにはやはり江戸時代の終わり頃に多くの蘭学者たちによって西洋の医学がさかんに輸入されたことを見のがしてはならないのです。もちろんそれ以前にも我が国に医術というものが無かったわけではないのですが、それらはただ個々の経験を集めたようなものであって、まだ全く学問として系統立ってはいなかったのでありましたし、またわれわれ人間のからだのなかのいろいろな器官がどんなものであり、どんな働きをしているかというようなことは、まるでわかっていなかったのですから、本当の意味での医学が発達するのには、どうしても西洋の医... | 西洋の医学を輸入する前の我が国の医術はどんなものでしたか。 | 我が国に医術というものが無かったわけではないのですが、それらはただ個々の経験を集めたようなものであって、まだ全く学問として系統立ってはいなかったのでありましたし、またわれわれ人間のからだのなかのいろいろな器官がどんなものであり、どんな働きをしているかというようなことは、まるでわかっていなかった。 |
Subsets and Splits
No community queries yet
The top public SQL queries from the community will appear here once available.